伝説

ムラサキハルカ

伝説

 *


「わかるかい。僕らは黒猫様のおかげでこの世に生を受けたんだ」

 夏。屋敷の縁側。風鈴の音の涼やかさの隙間を縫って届く父の昔話を、太一はまたかと少しうんざりしつつ、固い膝枕の上で脱力する。

 話の内容はいつも同じ。

 はるか昔、村の飢饉でご先祖様が困っていたところ、一匹の黒猫がふらっとやってきて手を貸してやろうかと言ってきた。ご先祖様は文字通り猫の手も借りたい状況であったため、一も二もなく提案に乗った。するとたちまち飢饉は収まり、ご先祖様とその家族は難を逃れることができた。何かお礼をしたいというご先祖様に、黒猫は少々恥ずかしげに、夫婦になってくれないか、と切り出したという。

 ここら辺を小学校に通いはじめたばかりの太一はおかしいだろうと思うが、とにもかくにもご先祖様はこの提案を受けいれたんだそうだ。そうして、黒猫が居つくようになった家には福が舞い降り、家は栄え、末永く幸せに暮らしたんだとさ。

 ありきたりな話だな、という感想を持つ一方で、太一はどうにも馬鹿にしきれずにいる。一つは太一自身が現時点でのこの伝説の、末永く幸せに暮らした先にある人間であること。そして、もう一つは――

 眼前でうつらうつらとしている黒猫。齢うん百年と言われるこの猫こそ、父の言うところの黒猫様その猫である、ということになっている。

 そんな馬鹿なと半ば疑ってかかりつつも、伝説は今も尚、更新中なのだった。

「たーくんも黒猫様に感謝を捧げて、この屋敷を守っていくんだよ」

 あらかじめ未来を決められたような物言いが癇に障る。ふてくされされながら、黒猫様の方を見れば聞き分けのない子を見るような目をされた。



 *


「素敵な話だね」

 畳の上で横になりつつ、どことなくうっとりとした様子で口にするシロ。その細く白い指先は、黒猫様ののどをごろごろしている最中だった。

「そんなもんか」

 この家の伝説を話して聞かせた太一の方はといえば、夏だけやってくる幼なじみの好ましげな反応があまりピンと来ない。シロは垂れた目を細め、そんなもんだよ、と口にしながら、ねぇ黒猫様、と優しく語りかける。

「黒猫様の旦那様はカッコよかったんですか?」

 シロの問いに、黒猫様は、小さく首を縦に動かしたように見えた。もっとも、すぐにのどをゴロゴロされるのに夢中になってしまったのでよくわからなくなったが。

「ほら、カッコよかったって! たーくんもきっと将来、カッコよくなるよ」

「いや、そんなん興味ないし」

「ええ。カッコよくなってよ。そうじゃないと、ぼくが困るよ!」

 なに言ってんだこいつ。そんな感想を持ちつつ、大の字に転がる。まともな冷房もないこの屋敷においては、こんな風にだらだらして合間合間に水をぐびぐびやるのが常だった。

「もう、たーくんはだらしないなぁ」

 あからさまな溜め息を吐くシロは、いつの間にか身を起こし、呆れたようなじと目で太一を見下ろしている。その胸元にいる黒猫様も似たような眼差しを送ってきていて、そんななんだからダメなんだぞ、と言われている気分になった。余計なお世話だ、と一人心の中で呟いてから手で頬を扇ぐ。


 *


 中学生になったばかりの夏休み。シロと近所の駄菓子屋まで足を伸ばした帰り道の途中。

「ねぇ、あれ黒猫様じゃない?」

 うなじの辺りまで伸びた髪をはためかせたシロの指差した先には、たしかに黒猫様とおぼしき猫がちょこちょこと歩いている最中だった。ほぼほぼ屋敷から出ない家猫だけに、太一は珍しいこともあるものだと不思議に思う。

「追いかけてみるか」

 珍しく湧いた興味の元、そう口にしてみせた。

「やめた方が良くない? ほら、黒猫様にも知られたくないこととかもあるかもしれないし」

 一方、子孫であるところの太一よりもよっぽど黒猫様を敬っているシロの方はどことなく及び腰だった。もっとも、幼い頃からの付き合いゆえに逸らされた目の中にそれなりの興味が宿っているのも見てとれたが。

「ちょっとだけだから、なっ」

 そう押してみれば、ちょっとだけなら、と折れる。太一は我が意得たりと、黒猫様と距離をとりつつ、後を追っていった。幸い、黒猫様の足どりは老いゆえかのたのたとしていて、見失わずに後をつけることができた。

 土塀の脇、稲穂の海、集落の外れの空き家の裏口から表口……想像以上に行動範囲が広い黒猫様に太一は舌を巻いた。何より、すれ違った人たちが皆、黒猫様を見つけると寄ってきて、大げさな挨拶やお祈りをはじめたりする。そのうちの何人かはお土産よろしく魚やキャットフード、ボールや猫じゃらしなどを与えていく。当の黒猫様は、屋台の縁日の食べ歩きのようにその場その場でご相伴に預かるかたわら、食べ切れなかったお魚や猫じゃらしは咥えながら運んでいったりした。

 意外にたくさんの人に好かれてるんだな。家猫兼ご先祖様(ということになっている)の地元での扱われ方を見た太一は、同じルートを辿る結果として与えられた焼き魚やスーパーボールなどのお土産に目を輝かせるシロの笑顔のかたわらで、そんなことをしみじみ思う。

「黒猫様を大事にしてやってくれよ」

「もうちょっとうちに遊び来てくれって交渉してくれんかね。生憎、ワシには猫語ってやつがわからんくてな」

「黒猫様、最近痩せ気味だけどちゃんと食べさせてあげてるのかい?」

 追跡の途中に会った、こんな言葉を送ってくる老人たちは、一様に黒猫様と子供の頃からの付き合いだという。そりゃそうなるだろうなと理解しつつも、黒猫様とせいぜい十と余年いるだけの太一にはいまいち実感が湧かない。

 そうこうしているうちに黒猫様が足を止め、太一とシロの方へと振り返った。いつの間にかたどり着いた自宅の大門の前で、最初からわかっていたと言わんばかりのどや顔をする猫に、遊ばれていたと気付き、舌打ちをする。


 *


「黒猫様がどこ行ったか知らない?」

 台所から出てきた母に尋ねられて、太一は知らんと答える。遊びに来ていたシロも長く波打つ髪とともに首を横に振ったのを見て、母は、そう困ったわね、と頬を押さえた。

「昨日から姿が見えないの」

 放し飼いなのだからどこに行っていてもおかしくないだろうと思う一方、ほぼほぼ家に居ついている黒猫様が一日家を空けるというのは珍しい。その上、毎日だらだら気ままに生きているのを見ると忘れそうになるが化け猫もかくやという高齢猫である。いつお迎えが来てもおかしくない。そうでなくても万が一居つくところが変わったりすれば、我が家の伝説的に大騒ぎにもなりかねない。

 そんなわけでとりあえず屋敷の中を手分けして探し、見つからなければ外へという段取りとあいなった。

 とはいえ、広い屋敷だけに数人で探すにしてもなかなか時間がかかる。いくつかの部屋と厠や風呂場を覗いた太一は早くも疲れはじめていた。

 さて次はと一息吐いたところで、庭先をのたのたと歩く見慣れた黒い影をみつけた。まったく、人騒がせな。ほっと胸を撫で下ろしながら、またいなくなられるのも面倒だと思い、確保しようと庭に降りる。すると、唐突に黒猫様が走りだした。なにを突然と戸惑い、後を追う。程なくして黒猫様は庭の外れにある蔵へと入りこんだ。自分から袋の鼠になってくれるとは好都合だと考えた太一は蔵の中へと入り後ろ手で扉を閉める。

「どうしたの、たー君?」

 中に入るとキョトンとした顔のシロが白いスカートをはためかせていた。

「黒猫様がここに来ただろ」

「ええっと、ぼくは見てないけど」

 首を横に振るシロ。噓を吐いている様子はない。だとすれば、俺の見間違いなのか? 太一は自らに疑問を抱きつつも、シロに事情を説明し手分けして捜索したものの探し猫の姿は影も形も見当たらなかった。

 いないのなら仕方がない。太一は首を捻ったあと、見間違いかもしれないが母に報告しておくかと蔵の扉に手をかけた。しかし、押しても引いてもびくともしない。焦りながら何度も試すが一向に成果は出なかった。立て付けの具合が悪いのか、あるいは何かの弾みで外鍵がかかってしまったのか。とにもかくにも扉はここしかない。シロと顔を見合わせたあとともに助けを呼んでもみたが、人がやってくる気配がない。

「どうしようか」

 壁にもたれかかるように座りこんだシロに、どうしようって言われたって、と応じようとしたところで、鎖骨を覆う皮膚の辺りに汗が滴っているのが目に入った。夏の薄着ゆえに露になった白い肌に視線が吸い寄せられそうになる。気付けば、シロの方も魅入られるようにして見つめ返してきていた。より、暑苦しくなるとわかりつつ、二人は肩を寄せ合い、顔を近付け……


 *


 白無垢に身を包むシロのいつになく上品な顔に満足しながら、蔵に入った日のことを思い出す。

 ことが済んだ後、父と母に聞いた話では、我が家の長女長男が年頃になると毎回同じように蔵に誘われるのだとか。

 微笑みと喜びに満ちた席の間、座布団の上でまん丸になった黒猫様を見やった。伝説に曰く、ご先祖様と黒猫様がはじめて一夜をともにしたのがあの蔵だという。

 化け猫め、と太一は心の中で毒づく。いつまでも生きてそうなこの老猫の肉球の上で転がされているようでどこまでも面白くない。

 軽く耳を引っ張られて振り向けば、シロがじと目を向けていた。

「たー君が大おばあ様を大好きなのは知ってるけど、今日くらいはぼくの方を見てくれないかな」

 囁き声に、冗談でもあの黒猫が好きだとか言うのは止めてくれ、と口にしようとしたが、思うところがあって飲みこむ。

「……悪かったよ」

「わかってくれるならいいよ」

 一転して満面の笑みを浮かべるシロ。少なくとも、今が幸せなのだから、今日くらいはあのご先祖様に感謝してもいいな、と。

 ふと、太一は思う。俺の子も、その子供も、この猫の肉球の上で幸せに踊るのだろうか? と。

 再びちらりと見やる。黒猫様は欲深げにニャッと笑った。

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伝説 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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