彗星蘭は微笑まない
雨空りゅう
プロローグ
真夜中。月明りは雲に閉ざされ、暗闇が幅を利かせている。蟲の寝息すら聞こえそうな静寂な世界。そんな静かな夜を女の怒号が切り裂く。
「侵入者だ! 捕らえろ!」
人々が慌ただしく駆け回る。揺れる角灯の明かりが檜の床を舐めまわす。廊下のきしむ音が怒号によってかき消された。
黒い外套が一人、音もなく駆けていく。追いすがろうとする人々を置き去りにして縦横無尽に、重力に縛られない軽やかな動きをみせる。
追いかける集団から三つの影が抜け出した。各々が手のひらや腕を黒い外套に向けた。かちりという音と共に、網や分銅が体内から射出される。それらは風切り音を鳴らしながら、猟犬のように標的へと殺到した。
黒い外套の侵入者は後ろを見ることなく、壁や天井を蹴って、開いている隙間を縫うように立体的な挙動でかわす。
「なっ!」
たなびいた外套から何かが落ちる。それは床に転がり、煙を廊下へと充満させる。
「煙玉かっ!? 皆、吸い込むな!」
煙に何を混ぜ込んでいるか分かったものではない。彼女らは不用意に飛び込むことは出来なかった。
「影(かげ)守(もり)達に追わせる! 翡翠、瑪瑙、琥珀! 魔力探知で追いかけなさい!」
集団の長らしき少女が、前に出た三人に命令を下す。しかし、命令を下されたにもかかわらず、彼女たちは身じろぎ一つしない。
焦れた少女が叫ぶ。
「どうしたの!? 早くしなさい! 絡繰りのあなた達なら、この煙を突破できるでしょう!」
それでも影守達は動かない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
その姿に少女はいらつき、舌打ちをする。
「三級じゃこの程度が限界ですね。仕方ない、迂回して侵入者を取り押さえる。警備が手薄な日を狙ってきた卑劣な輩に鉄槌を下すぞ! 皆、気を抜くなよ!!」
「「「はっ!」」」
もと来た道を引き返そうとしたその時、煙の方向から金属の衝突音が響いてきた。
少女はこの音を引き起こしたであろう人間を思い浮かべ、悲鳴を上げる。
「ご当主様!」
寝殿に面した廊下で戦いは繰り広げられていた。
空中に剣が幾重にも重なる。一つは短剣で、もう一つは刀。その剣戟は、常人には目で追うことのできない速度で展開されていく。
剣戟の役者は二人。一人は黒い外套の侵入者。もう一人は白い着物の総髪の女。
侵入者が獲物を仕留めようと、不規則な動きで短剣を躍らせる。着物の女は短剣の連撃を見切り、すべての攻撃をかわし、降り注ぐ剣撃を弾く。
拮抗はすぐに崩れた。侵入者の短剣が刀に弾かれて宙に舞う。その隙を逃す着物の女ではなかった。刀を上段の構えから振り下ろす。
対する侵入者は頭上に腕を交差させる。直後、金属の衝突音が鳴り響く。
血しぶきではなく火花が散る。構えた腕は切断されることなくその形を保っていた。何も防具を着けていないはずの腕が刀を押し返す。力比べでは侵入者の方が優勢のようだ。刀が徐々に上へと押し上げられる。
外套の侵入者はゆっくりと片腕を離す。刀により力を籠められるが、意に介さない。自由になった右手を強く握りしめる。侵入者は脇を閉めて正拳突きを放とうとした。
拳が着物の女に当たる直前、寝殿の奥から現れた乱入者が、侵入者の脇腹に鞘をぶち当てる。侵入者はくの字に折れ曲がり、庭へと吹き飛ばされた。
「遅れてすまないね、金剛」
着物を着た女を金剛と呼んだ乱入者は、瓜二つの顔をしていた。白い着物、切れ長の瞳に陶器のような肌。違うのは瞳と髪の色。先程まで戦っていた女は黒の瞳に黒い髪に対して、乱入者は桜色の瞳、淡い桃色まじりの白い髪。見る人に舞い散る桜を想像させるような外見。月明りもないこの夜でも桜は輝いて見えた。
笑みをたたえながら桜の女は、庭に転がっている侵入者に問いかける。
「こんな夜中に何の用かな? 客として来るのは少々遅い時間だ。侵入者として扱うが構わないね?」
侵入者は何も言わずに立ち上がった。顔の部分は外套に隠されて見えない。だが、落ち着き払った様子で二人と相対する。
投降する気のない侵入者に、桜の女はため息を吐きながら鞘から刀を抜く。それに合わせるかのように金剛も刀を構える。
相手が武器を構えているというのに、黒い外套の侵入者は立ち尽くしたまま、動かない。まるで何かが起こるのを待っているかのようだ。
「君はまだ影守に戦わせる気かい? もうすぐ騒ぎを聞きつけた私の家の者が駆けつけてくるだろう。状況はますます不利になる。これ以上は無駄だと思うよ」
桜の女は侵入者相手に言ってはいなかった。侵入者を介して聞いているであろう誰かに喋っていた。
未だに動かない侵入者に桜の女は顔をしかめる。
「写し身である影守を使い捨てるなんて理解しがたいね」
最初に動いたのは金剛だった。廊下から飛び出し、刀を水平に振るう。
侵入者は間合いを見切ったのか、後退しながら首をひねって切っ先をかわす。桜の女が人間離れした速度で距離を詰めて刀で突く。侵入者は片腕を差し込んで体が貫かれるのを防ぎ、勢いよく跳躍した。
距離をとった侵入者は自分の腕を掲げて首をかしげる。腕には小さくない穴が開いていた。
「君の影守はとても頑丈みたいだね。だけど、そう何度も受けきれるほど固くはないみたいだ。金剛の刀を受けた箇所を攻撃させてもらったよ」
桜の女は不敵に笑う。月明かりのない暗闇の中で、動く標的の狙いたい箇所に当てるなどどれほどの技か。彼女はさも当たり前かのように言ってのけた。
「ご当主様!!」
集団を率いていた少女が侵入者を挟む形で現れた。遅れて、人と影守の集団が庭先に出てくる。影守達が飛び出して侵入者を円状になるように囲む。
多勢に無勢。決して少なくない人数の影守、その影守と同等に動ける桜の女。侵入者は一人のうえ、片腕はもう使えない。勝敗は見えたも同然であった。
侵入者はぐるりと周りを見渡す。最後に桜の女に顔を向けて、掲げていた腕を下ろした。
「投降するなら必要以上の破壊はしないと約束しよう。そのまま地面に伏せるんだ」
桜の女は構えていた刀を地面に向けて促す。侵入者を、主の命令に忠実に従う影守を憐れんだ目で見つめた。
厚い雲がいつの間にか消え失せ、暗闇が月夜の明かりで薄らいでいく。風が木々を揺らし、桜の女と侵入者の間を通り抜ける。
侵入者の頭巾が風にまくれてその顔を見せた。鋼鉄を思わせるような黒い外殻、白い複眼、口元には大きな鋏。蟲の顔がそこにはあった。
誰が悲鳴を上げたか、分からない。ただ全員に動揺が走ったのは事実であった。
桜の女の反応が顕著だった。憐みの表情を浮かべていた優しい女性はもういない。眉間に皺を寄せて親の仇を見るかのように睨んでいた。
「前言撤回だ。森の御使いである蟲の面を被りながらこのような狼藉。森の信徒として見過ごせない。斬り捨てる!!」
地面に向けていた刀を蟲の面をつけた侵入者に向ける。迸る怒りで剣先が震えていた。
「金剛!!」
桜の女が叫ぶ。その声に応じるかのように金剛も刀を携えて飛び出す。二人は鏡合わせのように同じ動きをし、侵入者の首を撥ねようとする。
「魔道操術!! 蝶――」
二本の刃が交差する直前、蟲の面の侵入者は、地面に向かって何かを投げた。
視界が真っ白に染まる。暗闇から一転したそれは、もはや一種の暴力であった。
「くっ!? 閃光玉か!」
桜の女は視界を潰されながらも、立ち止まることなく刀を振るう。刃は空を斬り、首を落とすことは叶わなかった。
光が収まる頃には、侵入者の姿は影も形もなくなっていた。
桜の女は刀を鞘に納めて、自身の影守に労いの言葉を掛ける。
「よく私のことを守ってくれたね、金剛。助かったよ」
金剛は軽く頭を下げて近づいてくる。自身の影守の様子に思わず、笑みをこぼしつつ従者の頭を撫でた。
影守と触れ合っている桜の女に、集団を率いていた少女が近づく。
「ご当主様、お耳に入れたいことがございます」
「負傷者がいたのかい? 香(かおる)」
香と呼ばれた少女は、桜の女の心配をかぶりを振って否定する。
「不幸中の幸いで負傷者はおりません。皆、無事でございます。ただ……」
「ただ?」
「蟲の面を被った賊の目的はどうやら蔵に侵入することだったようで、荒らされておりました」
「何点かは盗まれていると考えていいだろうね」
「確認中ではありますがおそらく」
「捕まえる理由がまた一つ増えた、か」
桜の女は夜の空を見上げる。見えていたはずの月はどこかに消えて、厚い雲が夜空を覆う。頬を撫でる風は生ぬるいものに変わり果て、雨の到来を予感させた。
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