11

 ボロボロの床につかまりながら、下の階を見下ろしている瑠衣。対戦相手の万千華がボールプールの中で気絶しているのを確認する。

「は、はは……や、やった……」

 どうにか、この戦いには勝利できたようだ。あとは、つかまっている床をたどって天井に戻るか、下の階の安全な場所に飛び降りるなりして相手の指輪を奪えば、それですべて完了となる……はずだったが。


 くらっ。

 瑠衣の意識が、急に曖昧になる。


 そもそも。寸止めとは言え、彼女はすでに、空手を得意とする万千華の攻撃を二回も食らっていた。マリーの言葉で気持ちが高ぶって一時的にそのダメージを忘れていたのかもしれないが、勝利を確信して安心したことで、それがぶり返してきたらしい。

 急速に意識が遠のき、左手の力も抜けていく。そして、つかまっていた床から手を放し、彼女も下の階に向かって落ちていってしまった。


(し、しまった……)

 落ちていく瑠衣の心にあったのは、恐怖ではない。

 自分たちの勝ちを守りきれなかったことへの悔しさ。そして、主のマリーへの申し訳なさだった。

(あと、もうちょっと……だったのに……。せ、せっかく、マンちゃんに勝てたと思ったのに……。これじゃあ、引き分けに……。マリー様、ごめんなさい……)

 遠のく意識のせいか、周囲の光景がスローモーションに見える。

 彼女の瞳から、一滴の涙がにじみ出て、瑠衣の体を離れ、空中に浮かぶ。その様子はまるで、どうにかしてその場に留まろうとする瑠衣の意思を現しているかのようだ。

 しかし、それでも地球の重力はどうしようもない。彼女は万千華と同じように、下の階の床めがけて落下していった。


 パシィッ!

 そのとき誰かが、落ちていく瑠衣の手を掴んだ。

「全く。瑠衣、貴女はツメが甘いのよ」

 彼女の主の、マリーだった。


「……うっ⁉」

 細い腕で、瑠衣を引き上げようとするマリー。力仕事は慣れていないらしく、いつもの余裕に満ちた美しい表情が歪んでいる。しかも、瑠衣は今はもうすっかり気を失ってしまっていて、その全体重を完全にマリーに預けている。

「ちょ、ちょっと、瑠衣⁉ のんきに寝てないで、貴女もちょっとは、自分で助かる努力を……!」

「……」

「あー、もうっ!」

 どれだけ言っても、気絶している瑠衣は返事をしない。

 仕方なく、マリーは次に、自分の後ろにいるもう一人の自分マリーに言った。

「あ、あなたも、そこでぼうっと見てる暇があるなら、少しは手伝いなさい! このままだと、私と瑠衣の二人とも落ちてしまうわ!」

「……あら?」

 マリーは、マリーに答える。

「どうして私が、手伝ったりしなくちゃいけないのかしら? だって、さっきあなた自身が言ったんでしょう? 敵の私が瑠衣を応援するのはおかしい、ってね」

 「ふふふ」と、マリーをあざ笑うようなマリー。

「まあ……もしもあなたが、『どうかお願いします。手伝ってください』と言って頭を下げるなら……私だって鬼じゃないわ。あなたのメイドを引き上げるのを、手伝ってあげてもいいけど?」

「ちっ!」

 そんな『傲慢』な言葉に対して、忌々しそうに強く舌打ちするマリー。

「ふふ……。プライドの高いあなたなら、当然そんな事できないでしょうね。それくらい、分かっていたわよ。だって私は、あなたと全く同じ考えを持った、全く同じ存在なのだもの。違うのは、自分たちのメイドだけ。……だったら、私は下の階で伸びている私のメイドのところに行ってあげるべきなんでしょうね」

 マリーをあざ笑うもう一人のマリーはそう言うと、彼女と瑠衣に背中を向けて、下の階へと通じる階段のほうへと向かって歩き始めてしまった。

「ふん、勝手にしなさい!」

 結局マリーはもう一人の自分マリーに頼るのを諦め、一人で瑠衣の体を引き上げることに戻っていた。



 下り階段に向かうマリーは、その途中で一度後ろを振り返る。そして、気絶した瑠衣を必死に引き上げようと顔を歪ませている、もう一人の自分マリーを見た。

「全く……一流の淑女にあるまじき、お粗末な姿ね」

 そんなふうに眉をしかめる彼女。

 しかしその表情が次第に、切ない微笑みに変化していく。


 そして……、

「でも私、今のあなたが少しだけ……。ほんの、少しだけ……うらやましいわ」

 と、つぶやいた。


 次の瞬間。

 ポンッ! というコミカルな音ともに変身が解けて、一瞬にしてそのマリーが元のチャオインの姿に戻った。

「ふ、ふわぁー! マンちゃん、大丈夫ーっ⁉ い、今のお加減、いかがですかーっ⁉」

 それからの彼女はもう立ち止まったりせず、下の階でのびている自分のメイドの方へと駆けていった。



……………………………………………………


 それから、五分後。

 マリーは、どうにか瑠衣を屋上に引き上げることに成功したようだ。瑠衣はまだ気を失っていて、屋上の床に座るマリーの膝を枕代わりにして、寝かされていた。

「全く……貴女は、無茶しすぎなのよ……」

 瑠衣の顔や体には、万千華との戦いや、屋上の床に開いた穴から落ちかけたときについたらしい小さな傷痕がいたるところにある。戦いが終わって彼女たちが「戦闘用の誰もいない世界」から「元の世界」に戻れば、それらの傷はすべて消えて、瑠衣も無傷の体に戻れる。それが、この戦いの『設定』だ。

 しかし、マリーはその傷の一つ一つを、まるでとても大事で愛おしい物であるかのように指で優しく撫でていた。瑠衣が、自分のために戦ってつけたその傷を……瑠衣の自分への思いを、忘れないように……。



「う、うう……」

 やがて、気を失っていた瑠衣が目を覚ます。

 目覚めたばかりで意識が朦朧としている彼女には、今の状況がよく理解出来ない。ただ、目の前に美しい自分の主の顔があるのが分かると、それだけで安心することが出来た。

「あ、マリー様……」

 安らかに微笑む瑠衣。

 そんな彼女の頭を膝の上にのせたまま、マリーが静かに尋ねる。

「ねえ……瑠衣。貴女、どうして今日、私をここに連れてきたの?」

「え……?」

「だって貴女、こういうところあんまり来たことないでしょう? っていうか、単純に瑠衣らしくないわ」

「だ、だってそれは……せっかくのデートだから、マリー様に楽しんで欲しいと思って……。でも私、あんまりそういうの詳しくないから……普通の友だち同士がどんな場所に行くのとか分からなくて、ネットとかで調べて……」

「バカね」

 マリーは、瑠衣の髪をとかすように優しく撫でる。快感にも似た感覚を感じて、小さく身震いする瑠衣。

「私は他の誰でもなく、貴女と、親交を深めたいと言ったのよ? 貴女のことが知りたくて、今日の『デート』をお願いしたの。だったら、他人の意見や、ネットの情報なんてどうでもいいわ。もっと、瑠衣が行きたいところに私を連れていきなさいよ」

「で、でも…………はわっ⁉」

 気まずくなって、頭を動かして自分の髪を撫でるマリーの手から逃れようとした瑠衣。しかし、それによって自分が今、彼女に膝枕をされていることに気づいて、更に慌ててしまう。

「わ、私の行きたいところなんて、あ、あんまり面白くないかもですし⁉ っていうか、ホントにつまらないところなんでっ!」

「私が、瑠衣の好きな物や好きな場所のことを、知りたいの。たとえそれが、どんなに下らなくてつまらないところだって……それを知ることは、瑠衣のことを知ることになるでしょう?」

「そ、それは、そうですけど……」

「まあ、今回は今回で、それなりに面白かったから良かったけどね。今日の記念として、残る物もあったし」

「え……」

 マリーは一瞬、自分のドレスの懐に目を向ける。しかし、すぐにそれをもとに戻した。


 さっきの言葉の意味が分からない瑠衣は、キョトンとした表情で尋ようとする。

「あ、あのー? 記念って…………ぐえっ!」

 そこで、マリーが急に立ち上がる。当然、膝枕をされていた瑠衣は枕を失って、床に頭を打ち付けてしまう。

「ちょ、ちょっと⁉ マリー様、急に……」

 頭を抑えながら瑠衣が起き上がったときには、マリーはすでに出口に向かって歩きだしていた。瑠衣に背中を向けながら、彼女は言う。

「まあ、とにかくそういうことだから……次回の『デート』こそは、よろしくね?」

 さっきまでの、気絶した瑠衣を献身的に介抱してくれていた彼女はまるで夢だったかのようだ。一方的にそれだけ言うと、マリーはもう興味をなくしたように瑠衣を置いていってしまった。



 実は……そのときのマリーが言っていた「記念」とは、万千華との戦いの途中で瑠衣と一緒に撮ったプリクラのことだった。

 それは本当に何の変哲もない、どこにでもあるマリーと瑠衣の写真だ。しかし……もしかたら、17世紀ごろのフランスがモチーフという『設定』のマリーにとっては、少しだけ特別な意味を持っていたのかもしれない。

 そのころのフランスでは、貴族は政略結婚が一般的で、マリーのような貴族令嬢は一度も会ったことのないような相手との結婚を勝手に決められてしまうのが、普通だった。当然写真などもまだなく、唯一手に入る情報と言えば、画家が描いた許嫁いいなずけの相手の肖像画くらい。

 だからそういうお嬢様たちは、そんな肖像画を小さくしてペンダントなどに入れて――それはちょうど、今日マリーたちが撮ったプリクラくらいのサイズだろう――、ことあるごとに見返しては、その相手との結婚生活に思いを馳せたりしていたのだそうだ…………。



 当然、そんなことは全く知らない瑠衣は……。

「……は、はい!」

 単純に、マリーが次回の約束をしてくれたことが嬉しくて。

 相変わらず横柄で『傲慢』な態度の自分の主の背中に、満面の笑顔を返すのだった。

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