10


 り


 『箱』から飛び出してきたものは、瑠衣たちにはひらがなの『り』の形をしていたように見えた。

 しかし、誰もがよく確認しないうちに、それはすぐに霧のように曖昧になって消えてしまい、あとには空の箱だけが残った。


「り……? あ、そうか……」

 涼珂が、その消えていった『文字』を見て、何かを思い出してうなづく。

「この戦いが始まる前にも、僕とカチューシャは『しりとり』をしていて……そのときに、僕はカチューシャを『り』攻めにして勝っちゃったから。それでカチューシャ、その対策として『り』を、『箱』の中に……」

「うふふ……わたくし、秘策があると言っていたでしょう?」

「そんなことのために、自分の能力を使うなんて……全く、カチューシャは大人気おとなげないな」

「だってわたくし……どうしても貴方に勝ちたかったのですもの」

「ふふ、言っただろう? そんなことをしなくたって、僕はいつだって、キミの言う事ならなんでも叶えてあげるって……」

「まあ……」

「ああ、カチューシャ……」

 何か二人だけが分かるような言葉を言って、微笑み合うカチューシャと涼珂。


 アパレルショップで、ストートファッションやゴスロ衣装の着せ替えショーを楽しんでいたときのように。あるいは、スイーツショップでんごケーキのホイップクームを破廉恥な方法で食べていたときのように。


 また彼女たちが、二人だけの世界でイチャつきだそうとしたところで……。

「マ、マリー様!」

 カチューシャたちが驚いて我に返ってしまうほど大きな声で、瑠衣が叫んだ。

「マリー様! マリー様ですっ! 私のお嬢様の名前は、マリー様ですっ! 今、完全に思い出しました! マリー様、マリー様、マリーさーまーっ!」

 叫びながら、勢い余って自分の主に抱きつこうとする瑠衣。しかし、当然そんな彼女の行動は……、

「ぐえっ⁉」

 彼女の主……『傲慢お嬢様』の二つ名を持つマリーによって冷静に、冷酷に、拒絶されるのだった。


「瑠衣、貴女ね……。今さらやっと私の名前を思い出したくらいで、調子にのっているんじゃないわよ? そもそも、メイドがご主人様の名前を忘れること自体が、ありえないことなのだからね? 一度でも忘れてしまったことを、心の底から深く深く反省するのが道理なのよ?」

「れ、れも……」

 また両頬を指でつままれて、上手く喋れない瑠衣。しかし、それでも精一杯の反論を繰り出そうとする。

「わ、わらひが、マリーはまのなまへを忘れちゃったのは……かひゅーひゃちゃんの能力のせいだったわけれ……。だ、だいたひ、マリーさまだって、ご自分で自分のなまへをわすれてたわけだひ……」

「何? 貴女何か、この私に言いたいことでもあるの?」

 ギロリと、鋭い緑色の眼光で睨みつけるマリー。それだけで瑠衣は完全に硬直して、「ない、です……」とつぶやくことしか出来なくなるのだった。



「さて、と……。冗談はこれくらいにして」

 ひとしきり瑠衣の頬をつまんで遊ぶのを楽しんだマリーは、瑠衣から手を離す。そして、あっけにとられていたカチューシャと涼珂の方に向き直った。

 するとカチューシャもそこで、気を取り直したように、

「改めまして……わたくしの本名はエカチェーナ。エカチェリーナ・スヴァローヴナ・ベルフェコワと申します。この催しにおきましては、『箱入りお嬢様』というものをさせていただいております。どうぞ引き続き、カチューシャとお呼びくださいませ」

 と、可愛らしい笑顔で微笑んだ。

「私はマーよ。マリー様と呼びなさい」

 その言葉に、相変わらず高圧的に返すマリー。名前に「リ」が入る二人の淑女は、そこでようやく正式な自己紹介を済ませたわけだ。


 そして彼女たちはお互いに、本格的に戦闘態勢に入った。

「それじゃあ、そろそろこの戦いの決着をつけましょうか? 覚悟はいいかしら? この私をここまでコケにしてくれた礼は、たっぷりさせてもらうわよ?」

「これはこれは……。一度はわたくしの『箱』に入っていただいたというのに、相変わらずのご様子で……。全く、仕方のないおかたですね? こうなればマリー様には、『わたくしたちの本気』を思い知っていただくしか……ございませんわね?」

「ちょ、ちょっとカチューシャ⁉ ま、まさか……」

 主の雰囲気に、ただならぬものを感じ取る涼珂。

「ふん。まだ本気の力を隠していた、とでも言うつもり? おもしろいじゃない。……瑠衣!」

「は、はい!」

 マリーに呼ばれて、我に返った瑠衣。主の隣に並び、今までずっと効果が続いていた『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』の右手を、空手の構えのように振りかぶる。

「か、覚悟して下さいっ! 私、この能力まだまだ初心者で……手加減とかできませんからねっ!」

 そして、そんな自慢にもならない脅しのような言葉を言うのだった。


 相対あいたいする、二組の淑女とメイド。

 『箱』に閉じ込める隙を虎視眈々と狙っているかのような気迫のこもった、『箱入りお嬢様』のカチューシャ。その一方では、『傲慢お嬢様』らしく相変わらずの余裕ぶった様子のマリーが、自分の能力で強化された瑠衣を突撃させる絶好のタイミングをうかがっている。

 お互いがお互いの出方をうかがいつつ、相手に生じる一瞬の隙を待っているような状態。彼女たちの間には、「次に先に動いたほうが負ける」というような、独特の緊張感が張り詰めていた。……の、だが。


「う、うわぁぁぁーっ!」

 そんなシリアスな空気を全然読めない瑠衣が、しびれを切らしたかのように単独で突っ込んでいった。

「あ、バ、バカ……ちょっとっ⁉」

 マリーが、そんな彼女を慌ててとどまらせようとするが、もう遅い。

「うふふ……」

 その無計画な攻撃で生まれた一瞬の隙をついて、カチューシャは自分の手元から何かを取る。そしてそれを自分めがけて突っ込んでくる瑠衣の前に突き出して、こう言ったのだった。


「参りました」


「うわぁぁぁー……あ、へ?」

 思いもよらない言葉を聞いた瑠衣は、突っ込んでいた勢いが余って、その場にずっこけそうになってしまう。それでも、なんとか踏みとどまってその顔を上げ、カチューシャが自分の目の前に突き出していた物を確認して、また驚くのだ。

「え⁉ そ、それって……」

 カチューシャが瑠衣に差し出していたもの……それは、シンプルなデザインの指輪。瑠衣がマリーから最初にもらったのと同じような、『淑女とメイドの契約』の指輪だったのだから。


「どういうこと? 貴女……私たちに勝てないと悟って、降参しようっていうの?」

 マリーもまだ信じきれない様子で、怪訝な顔でそう尋ねる。

「ええ。そのようにとって頂いても、構いませんよ」

 そう言って、スイーツショップのテーブルの上に無造作に指輪を置き、食後の紅茶に手を伸ばすカチューシャ。

 負けを認めた彼女がひどく落ち着いているのに、それを言われた瑠衣たちはたじろいでしまっている。それは、とても奇妙とも言える光景だった。


「はは……」

 呆れるような笑いを浮かべてから、涼珂は自分も指輪をはずしてカチューシャの指輪のとなりに置く。それから彼女が、まだ訳が分からない瑠衣たちに、フォローを入れてくれた。

「実を言うとね……そもそも僕もカチューシャも、こういう争い事や戦いって、あんまり好きじゃないんだ。できれば、ただただ二人きりで静かに暮らしていたい、そんなふうに思っていたからさ。だから、もしもこの戦いの途中で『自分たちの目的を託す』事ができそうな相手が現れたなら、さっさと負けを認めてあとのことは任せてしまおうって思ってたんだ。それが、さっきカチューシャが言ってた『僕たちの本気』、『僕達の本当の目的』だよ。そしてカチューシャは、キミたちのことをその相手としてふさわしいと思った……ってことなんだよね?」

「はい」

 カチューシャはうなづくと、優しく微笑む。もう既に、そんな態度の彼女からは敵意は微塵も感じない。

 しかし、それを聞いてもマリーはまだ、戦闘態勢を解くことが出来ない。

「ふん。負けを認める代わりに、私たちに『目的を託す』、ですって? お話にならないわね。再三に渡って言っているのだけど、この私が他の誰かの命令なんて受けるわけがないの。だから貴女たちの選べる選択肢は、最初から私たちへの無条件降伏以外にはありはしないのよ? いい加減、そのことを学習してほしいわね」

「ですが……」

 カチューシャはカップに一口だけ口をつけ、それから言った。

「おそらくなのですが、わたくしたちがマリー様たちに託したい目的というのは……マリー様たちが今叶えたいと思っていらっしゃる目的と、それほど変わりはないかと思いますよ?」

「え? マリー様の叶えたい目的……って」

 思わず言葉を漏らし、マリーの方を見る瑠衣。しかし、彼女はいまだに警戒を続けているのか、カチューシャのほうを睨んでいる。そんな彼女たちに、カチューシャは言う。

わたくしたちの目的は……わたくしとスズカをこのような野蛮な戦いに巻き込んだ張本人……この戦いの『主催者』の方を、探し出すこと。そして、このような戦いがどれだけ間違っているかをお伝えして、中止にしていただくことです。結果的にそれが達成できるなら、自分自身の勝敗などは特に問題ではありません」

「そ、それって……」

「これまでのあなたがたのご様子を拝見させていただきました結果……あなたがたお二人でしたらきっと、わたくしたちのその目的を果たしていただける……そう判断させて頂いたというわけでございます」

 確かに、それはマリーが最初におしえてくれた目的とほとんど同じだ。瑠衣は、そう思った。

「ふん……」

 自分の視線の先では、相変わらずマリーがカチューシャのことを睨みつけている。その表情からは、彼女の今の気持ちはよくわからない。でも、もしも本当にカチューシャが、マリーと同じ気持ちなのなら……。この戦いの『主催者』のやり方に問題を感じていて、それに反発することが目的なのなら……。

 これ以上の戦いは無意味なんじゃないか? 彼女たちは、仲間としてこれから協力出来るんじゃないか? 瑠衣には、そう思えた。


 そんな瑠衣の考えと、同じことを思ったのかは分からないが。

「まあ、その言葉や目的が真実かどうかなんて……どうでもいいわ。放って置いても、そのうち分かることでしょうしね」

 突然マリーがカチューシャに背中を向けて、その場から立ち去り始めてしまった。

「あ、マ、マリー様⁉」

 慌ててマリーを追いかけようとする瑠衣に、彼女は背中を向けたまま言う。

「瑠衣、とりあえずその指輪はもらっておきなさい。彼女が負けを認めた証として……私たちの、勝利の証としてね」

「は、はい!」

 瑠衣は、差し出されていたカチューシャと涼珂の指輪を丁重に受け取る。そして、去っていくマリーを追いかけた。



「うふふ……。ご理解いただけたようで、良かったです」

 残された形の、カチューシャと涼珂。

 次第に、周囲に騒がしい話し声が聞こえてくる。いつの間にか涼珂の着ていた執事衣装もなくなり、彼女は学校の制服姿に戻っている。

 それは、この戦いが完全に終了したことを意味していた。

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