名前で呼んで

江戸川台ルーペ

「よし分かった。こうなったらミケに決めてもらおうじゃないか」


 と桜田清彦が意を決した声で言った。ここは私の家で、飼い猫のミケが我々が向き合っているテーブルの上にちょこんと乗っている。この猫の生い立ちはさておいて、とりあえず我々が何の話をしていたかというと、早いところが別れ話だ。


 私は彼氏として付き合って三ヶ月ほどになる桜田清彦にうんざりしていた。最初の付き合い始めのまめまめしさはどこへやら。今となっては週に二回くらい、私が住んでいるボロアパートに泊まりに来るくらいだ。最初に泊めた時、もっと嫌がれば良かったのだ。布団も2組もないし、となると一つの布団で二人が眠る訳だから、翌日の朝は寝不足で起きるに決まっている。なのに私は、つい酔っ払った勢いで「いいよ」と快諾してしまった訳である。


 私たちはその後、付き合うに至ったのだけど、大学生同士の恋愛は山の天気のようにコロコロと姿を変え、私はすっかり桜田清彦に魅力を感じなくなってしまった。入学したてのテンションで舞い上がり、適当な男子が気になったという錯覚を恋と勘違いしていたのだ。よく見たら桜田清彦はそれほど格好良くなかった。清潔感はあるが、眠っている顔は馬鹿みたいだし、玄関の靴は真っ直ぐに置かないし、買ってきた漫画雑誌を私の部屋に置いて帰った。持っている鞄はいつも同じ斜めがけのセンスのない緑色のものだった。どうして私は緑色のバッグを掛けている男を好きになってしまったのだろう?


 他にも細々とした桜田清彦の嫌なところはたくさんあった。例えば彼は携帯電話を持っていても電話に出なかった。約束の時間にも遅れるし、目的地へ行くまでの間に交わす会話は概ね自分のことばかりだった。よく考えてみたら桜田清彦という名前もムカつく。政治家みたいな名前じゃないか。好き嫌いも多く、自分が嫌いな食べ物を残す事に躊躇がなかった。 食べ物を残すなんて有り得ない事だ。せめて、食べられない事を申し訳なさそうにするべきだ。


 そんな桜田清彦に懐いてしまったのが我が愛猫通称ミケである。ミケは雨の日に段ボール箱に捨てられていて、私が拾ってきた。絵に描いたような捨て猫ぶりに少し感動すら覚えた。「だれか拾ってください」の文字が書かれた段ボールなんて、漫画だけの世界かと思っていた。連れてきた当初はぐったりとしていたが、たった数週間後にはそれはそれは賢い猫として我が部屋に居着いた。私は課題に追われ、家と大学を往復する日々であったから、ほとんどミケに構う事は出来なかったが、ミケは私の事を自然と飼い主と認め、適当に外で遊んでは窓を引っ掻いて、ご飯を食べに家に戻るというような生活を過ごしていた。共同生活はまずまずといったところだった。


 桜田清彦がミケと名付けた。


「名前、なんつーの?」


「名前? ないよ?」


「猫に名前付けないの? ちょっと待ってくれよ」


 桜田清彦が顔を抑えて私を信じられないというような顔をして見た。


「猫に名前を付けないって、お前マジか?」


「名前なんていらないでしょ」


 猫缶という私の学食のAランチに匹敵する贅沢品を皿に開けながら私は応酬した。うっかりすると蓋の裏を舐めてしまいそうになる。


「猫は猫よ」


「じゃあ、ミケと名付けよう」


 桜田清彦が命名した。


「別にいいけど」


 と私は言った。名前なんて好きにすればいい。猫は自分がミケと名付けられた事も知らず、それが高級品である事も知らず、食事を小さな口で平らげた。


 ◆


「ミケって呼ばないでよ」


 私は抗議した。


「私があなたと別れるって決めたの。ミケに決めてもらおうって、あなた頭がおかしいんじゃないの?」


 時間は冒頭に遡る。私は桜田清彦に別れを持ちかけたのだった。


「ミケは僕に懐いてる」


 桜田清彦が猫の頭を撫でた。


「僕が居なくなったら、寂しがるぞ」


「うっさいわね」


 私はこめかみを抑えて可能な限りの不機嫌な声を上げた。


「いいから二度とここに来ないで。連絡もよこさないで」


 桜田清彦は言われた通りに玄関から出て行った。それで短いながらの私達の関係は終了した。全く実りのない、無意味な付き合いだったような気がする。残ったのはただひたすらの徒労。そして ──


 私が暖かく小さな頭を撫でてやると、チリン、と首輪の鈴が音を立てた。




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