サンドライド スプリング

中州修一

別れ

遮るものなく、ずっと広がっていく地平線に道が一本ある。

その上を軽い足取りで歩いていた。


「こんな感覚、何年ぶりだろう」


足も体も軽くて軽くて、一生歩いていたかった。

太陽も沈まない。沈みかけの綺麗なオレンジを保ったまま、一向に沈もうとしない。

そんな夕焼けを眺めているだけで、心はぽかぽかと暖かくなった。悩みも不安も何もない。暖かい感覚だけが体を巡っていく。幸せだ。


——俺は死んでしまったのだろうか


日々悩まされている肩こりや腰の痛みは、今では全く感じない。

足取りは軽かった。疲れもないし、不思議と不安も湧いてこない。


「もしこれが死後の世界なら、最高なのにな。」


死ねたのなら、ラッキーだ。

平日は辛い仕事に追われ、休日は妻と娘へ家族サービス。

時間に追われ、人に追われ——俺は色々なものに追われながら人生を過ごしてきた。そこに「幸せ」なんてものはなく、ただただ無限に連続していると思われる日常だった。


死にたい、とは思わないが、死んだ方が楽だろうな、とは思っていた。


久々に時間の経過を気にせずに歩いた。

何も考えずに歩く。

道を外れず歩く。


歩いて歩いて歩いて——


ふと見つけた。

道端で一つ、ポツンとある箱のようなもの。

ドア以外の装飾品が何もない、真っ白で、まるで横に長い豆腐のような建物だった。


太陽が隠れて、俺は久しぶりに影を踏む。建物の後ろに夕焼けが隠れて多少ムッとしつつも、どうしてもその存在を無視できなくて、道を外れて近づいてみた。


近づくとドアが段々と大きくなって、人一人くらいなら余裕で通れるくらいになった。中は見えない。


無意識でノブに手をかけると、ドアは迎え入れてくれるかのように簡単に開いた。 


「あれ、おかえりなさい」


中に入るのと、声を掛けられるのはほぼ同時だった。入ってすぐに、紙の香りが漂う。


建物の奥の方には天井まで続く棚がびっしりと置いてあって、手前の方には小さなバーのようなカウンターと、カウンターの中に人が一人立っているだけだった。

他に人の気配はなく、外の空気とは違う密閉された空間で、俺は正面の男に話しかけられていた。

若い男だ。顔立ちも整っていて、自然な笑顔が印象的な好青年。


この青年と関わった記憶はないが、不思議と俺はこの青年とどこかで親しくなったのではないか、と軽く思い返すくらいには親しげだ。


「今日はコーヒーにします?それともラテ?」

「え……っと」


さっきまで夕焼けに照らされてぽかぽかしていた頃とは一変、

久々に会う友人と話しているかのような、不思議と落ち着く心地。


「あ、でも今日はコーヒーですね。……ほら、僕とあなたが好きな豆がこの前、ちょうど手に入ったんですよねえ」


男はカウンターの下からコーヒー豆を取り出した。何かの鳥の絵が描かれた袋から豆を量ると、ゴリゴリとコーヒーミルで豆を挽き始めながら再三口を開いた。


「ほらほら、今から淹れますからカウンター座ってください」

「あ……ああ、」


明らかに俺のことを知っている風に話を進める青年に促され、俺は4つあるうちの右から二番目の椅子に腰をかける。


『明らかに、人違いだよな』


俺はこの子と知り合った覚えもなければ、関わった覚えもない。

コーヒーは、昔は好んで飲んでいたが、3、4年前には匂いが苦手になってやめた。彼が人違いをしているのは明らかだった。


「あの……」

「最近いらっしゃらなかったじゃないですか、またお仕事忙しかったですか?」


楽しそうにコーヒを淹れながら会話を始める彼を前に、完全に人違いでることをいうタイミングを見失ってしまった。

仕方がなく会話を続けることにした。


「えーっと……仕事もそうだけど、家族のことも大変だったかな」


家族の話題を振りながら、俺は遺して来てしまった家族のことを考える。

5年前に結婚した妻と、今年で3歳になる娘。曲がりなりにも一家の主人として頑張って来たが、俺が死んでしまうとどうなってしまうのだろうか——


でも、そこまで考えて——やめた。俺が死んだとするなら、彼女たちはもう俺がどうすることもできないからだ。それに、考えない方が俺の気持ちも楽だと思ったから。


青年は挽き終わった豆をドリッパーにセットして、少しずつお湯を注ぎ始める。

紙の匂いの隙間から、強烈で香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。

その匂いが、眠気覚ましのために職場で大量に飲んでいたインスタントコーヒーを思い起こさせる。


「——ごめん、俺コーヒー苦手なんだよね」

「あはは、前回いらした時もそんなこと言ってましたね」


耐えられず俺が青年にいうが、青年は俺の言葉を軽くあしらった。


「僕もコーヒーの香りはあんまり好きじゃないんですよ。最初は好きだったけど、匂いを嗅いでいるうちに胃が重くなっちゃうっていうか」


それから彼は丁寧に、蒸らし終わった豆にゆっくりとお湯を注いでいく。モコモコと膨らんでいくように盛り上がっていくコーヒー豆を眺めながら、彼はドリップする手を止めない。


「お互いコーヒー自体は好きなのに、勿体無いよねって話して見つけたのがこの豆なんですよ——はい、出来ました」


お湯を注ぎ切って、あらかじめ温めておいたマグカップにコーヒーを注ぐ。

よく匂いを嗅いでみると、普通のコーヒーとは少し違う、どちらかというと紅茶のようなフルーツのような香りに驚く。


「僕も営業中ですけど、いただきますね」


彼もちゃっかり自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、一口啜った。それに続いて俺もコーヒーを煽る。


「おいしいっ!」


俺の口から素直な感想が溢れた。

口いっぱいに広がるチェリーの香り、コーヒーを飲んでいる感覚を残しながらも、フルーツを感じる味に、思わず声を上げてしまう。


「それはよかったです——よければこれも」


そう言って渡されたクッキーと一緒に、俺は言葉を忘れてコーヒーを飲んでいた。

ずっと何もない暖かい空間を歩いていたさっきも幸福だったが、色々な事を考えながらコーヒーを飲む今もまた、充実した気持ちになった。


「本当に、今日あなたが来てくれてよかったです。」

「え、どうして?」

「僕、今日でここ辞めるんですよ」


コーヒーを啜りながら、彼はさっきより少し曇った笑顔でそういった。


「色々と考えて決めて——せめて今まで関わってきた人たちともう一回、こうやってお話できたらなって思ってたんですよ」


そういった彼をみながら、内心で俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

彼が話したかった誰かは、少なくとも俺ではなかった。


こんなに親しみやすい彼には、きっと何人も、親しくしている人がいるのだろう。その笑顔で多くの人の心を明るく照らしたのだろう——


「——俺も嬉しかったよ」

「それはよかったです。それでいいんですよ」


せめて俺は、彼が話したかったであろう誰かを演じ続ける。

彼は訳のわからないことを言いながら、もう一度コーヒー豆の袋を取り出した。

急に明るくなった彼は目を潤ませながら言葉を続ける。


「例えあなたが覚えていなくても、私はずっと忘れないんですよ。例え僕のことを何度でも初対面の人だと思われていても、僕は違うんですよ……」


ブツブツと言いながら、彼はきっちり20グラムの豆をはかり、別の袋に移し替える。


「あなたが生きがいだと言っていた娘さんや奥さん、大変だと言っていた仕事、死にたいって言っていた本音も……今まで全部あなたから聞いてきました」


途端——ふわふわと夢心地だった頃から、急に現実に引き戻される感覚を覚えた。


「僕もね、見つけようかなって思うんですよ。だからここを辞めて、色々なものを見てみたいなって思います。」

「そうか……」


俺は、彼がここまで話して、ようやく間違っているのは俺である事に気がついた。


人違いなんかじゃなく、間違いなく彼は俺のことを話してくれていたんだ。


彼は豆の入った袋にしっかりと封をして、それをカウンターの上に置いた。


「また、会えたらいいですね——ここで」

「……今度は、君の話も聞かせてほしい」


ぜひ——


——————————————————————————————————


「お——さん?お父——ん!」

「ん——ぐう」


激しい腰の痛みと、腹の上に乗っかる苦しい感覚で、俺は目を覚ました。


「あ、お父さん起きたー!ゆうえんち行こー」

「お父さんは疲れてるから、一人で遊んでなさい」

「折角の休日なんだから、お父さんと遊びたいよねー!」


俺が痛みと共に体を起こすと、お腹の上には娘、ベッドの隣には妻が腰をかけていた。


「ほらあなた、早く準備して!遊園地いくわよ」

「え、ほんとにいくのか〜?」


騒がしい事に変わりはないが、俺の心はやけに穏やかだった。


なんだか、長く心地のいい夢を見ていた






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