Part 8

「ひょっとして、これから死ぬつもりなんですか」

 真菜は、こくりとうなずいた。

「どうしてですか。理由を聞かせて下さい」

「……言えないです。置部さんには言えない」

 真菜は、そう言って立ち上がろうとした。置部は、とっさに真菜の左腕を、強くつかんでいた。


「夢ですね。今夜の夢が怖いんでしょう」

 夕暮れ時に死のうとする者の理由は、概ねそうであることを置部は知っていた。

 真菜は溜め息をつき、諦めたように目を閉じると、小さくうなずいた。

 置部は彼女の腕を、そっと離す。


 真菜は、胸元に手を入れて、首に掛けていた銀のネックレスの先に付いている物を取り出した。

 それは、十字架だった。長く身に付けたのか銀色が褪せた感じになっている。

「わたし……たぶんクリスチャンだったと思うんです。この十字架、普通の飾りと違って、けっこう大きいし……。アクセサリーとかじゃないと思うんです。この島に来た時は、どうしてこれをわたしが持っているのか不思議だったけど……昨日夢を見て、その理由が判ったわ。何かにすがらなければ、きっと生きていけなかったんでしょうね」

「いったいどんな夢を見たんですか」

 置部の問いに真菜は、また言い淀んでしまった。


「教えて下さい。このまま仲條さんが死んでしまうなんて、僕はとても納得でき――」

「父に犯されていたの。小学校の時からずっと」

 真菜は、小声で吐き捨てるように言った。

 それを聞いて、置部は何も言えなくなってしまった。真菜の言葉は続く。

「ずっと犯されている夢を見せられるのよ。きっと今夜もそうだわ。そんなの、耐えられるはずがない……だから」

 真菜は、十字架を握り締めた。その手は震えている。


 置部はすぐに彼女をこの島に逗留させる理由を考えなければならなかった。しかし、何も浮かんでこない。真菜の告白は、彼を納得させるのに充分なものであったからだ。

「さようなら。置部さん。今日一日楽しかったです」

 真菜は、立ち上がった。ゆっくりと歩き始める。

 次第に遠ざかる彼女の後ろ姿を、置部はぼんやりと見つめる。


 だが折れそうになる心を鼓舞し、何とか立ち上がり、置部は走り出した。彼は自らの体さがしのためにも、真菜をどうしても説得しなければならない必要があった。失うわけには、いかないのだ。


 走っているうちに彼は、ある考えが浮かんできた。真菜に追いつく。

「仲條さん。現実の世界では、おそらくお父さんとは、もういっしょに暮らしてないんじゃないですかね」

 置部の言葉に、真菜は振り向いた。

「分かりません。そうだといいんだけど……」

「仲條さんはもう大人なんだから、きっと家を出てますよ。お父さんとは決別しているんじゃないですかね。だとしたら、仲條さんが見た夢は、もうすっかり過去の事だ。終わったことなんですよ。だから、怖がることなんてない。だいいち、そんなひどいお父さんのせいで死を選ぶなんて、あまりに莫迦げてると思いませんか」

 真菜を失いたくない置部の、必死の説得だった。

 彼女は置部から視線を逸らし、ただ耳を傾けている。


「耐えて下さい。仲條さん。夜が辛いのは、あなただけじゃない。みんなそうなんです。僕だって夜は怖い。でも、二十年間耐えてきた」

「けど……」

「せめて、今夜一晩だけでも耐えて下さい。明日には仲條さんの体が全部揃うように、さがし回りますから」

「そんな……ありがとうございます」

 真菜は、ようやく置部の方に顔を向けた。彼女は笑みを浮かべていた。


「いっしょに、小屋に戻ってくれますよね」

「え、ええ……」

「良かった、本当に良かった」

 二人は、掘り当てた体が置いてある草むらへ、踵を返した。

 置部は歩きながら、真菜と過ごすことになる明日に思いを巡らしていた。



          *



 陽が赤く染まり、今日もまた夜の帳が、島に降りようとしていた。

 夕焼けが徐々にその色を濃くしていく中、島の最南端に位置している切り立った岸壁の上に、独りの男――〈地迷い〉が立っていた。


 あたりが暗くなったところで〈地迷い〉は動き出す。

 塩をふんだんに含んだ風に晒されながら、猿のような姿をした小男は、するすると岸壁を器用に降りてゆく。


 しばらくすると岸壁の表面に、人が横たわっても余りあるぐらいの横に伸びた窪みがあった。

 そこが〈地迷い〉の住処であった。彼は、ここで野宿をしているのだ。


 窪みの奥には、彼が人々から奪い取った体が、無造作に積み重なっている。

 手や足や腕などが小山のようになっている。大きな部位は無い。持ち去るのが難しいからだ。その山の中には、窪原の右足と頼子の右手もあった。


 〈地迷い〉は、その中から左足をひとつ取り出した。鮮やかな黄色いペディキュアが爪に塗られている。〈地迷い〉は、その足を愛おしむように指で撫でまわす。顔が恍惚の表情に変わっていた。

 次に彼は、親指の爪に唇を付けた。親指を口に含む。ぴちゃぴちゃと、下卑た音がした。

 〈地迷い〉は目を閉じ、足全体を執拗にゆっくりと舐めていく。唾液が口から溢れ、あごを濡らした。


「野添さん」

 突然、背後で声がした。野添は〈地迷い〉の名前だった。

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