四日目

Part 1

 窪原にとって、この島で何度目になるのか分からない朝が、やって来ていた。

 窓からの光が、部屋を白く変えてしまうほど強烈に射し込んでいる。


 彼は、ベッドに横たわったまま、長く動けずにいた。人々が体さがしに出掛ける雑踏が聞こえていたのは、もうだいぶ前のことだ。


 予想した通り、最後に見た夢は今まで見たものの中で最悪だった。今回、この島に来る原因となった夢は、まだ見ていないが、これほどひどくはないだろう。その危篤に至る夢を見ることは、もう無いかもしれないが、と窪原は思った。


『あなたを見送ったら、北の海の影に入る』――夢の中で聞いた亜矢香の言葉を、彼は反芻し続けていた。

 俺はやっぱり死ぬのが怖かったのだ。亜矢香と心中までしておきながら、意識のどこかで死を恐れていたのだ。亜矢香の死に対する毅然とした態度に比べ、俺は何て腑抜けな男なんだ。彼女を見捨ててまで、現実の世界に戻った俺は、またこの島に来てしまっている。いったい俺は何をやっているんだ。窪原は底の無い自己嫌悪に陥っていた。


 彼の結論は、とうに決まっていた。それは当然の帰結だった。しかし情けないことに身体が、いつまでたっても動かない。昨日、赤本が乗り越えた壁を、窪原は乗り越えられないでいた。亜矢香の想いに報いるためには、それしかないというのに。


 窪原は寝たまま横目で、床に置いてある体に視線を移した。

 下半身は、右足と陰部を除いて揃っており、それに胴体が付いている。右足は昨日見つかったものの、〈地迷い〉とか呼ばれている奴に持ち去られてしまった。だが、頼子が聞いた置部の話では、確実に戻ってくるのだという。頭と陰部は、必ず見つかる場所があるという情報を赤本から教えてもらった。手がかりがないのは、あと両腕と両手だけということになる。体さがしが意外にも、はかどっていることを窪原は確認した。

 しかしその事実も、今の彼には何の意味も持っていない。


 突然、扉をノックする音が響いた。がちゃがちゃとノブを回す音もする。

「はい、ちょっと待って」

 窪原はベッドから降りた。鍵をスラックスのポケットから取り出し、扉を開ける。


 頼子が立っていた。

 彼女を前にして、やっと窪原は、広場での待ち合わせの約束が有ったことを思い出した。


「秀弘は、ここで寝泊まりしていたのね」

「どうして、俺の小屋が判ったんだ?」

「秀弘がいつまでたっても広場に現れないから、心配になって、小屋を一軒一軒探し回ったの。やっと見つかったわ」

 頼子の心配は当たっていた。窪原は死を選ぼうとして、ベッドの上で躊躇し続けていたのだから。


「いったい、どうしたの? あれから何かあったの?」

「……昨日、君が話していた亜矢香の夢を見たんだ」

「そう……」頼子は不安そうな顔をした。「それで?」

「彼女は、もういない。現実の世界にも。この島にも」

「えっ? 亡くなっているってこと」


 窪原は昨夜の夢を頼子に、かいつまんで話した。細かく話をする気には、とてもなれなかった。

「そうだったの……そんなことが昔あったんだ」

 いきなり頼子は、窪原に抱きついてきた。彼女のやわらかい胸の感触が、彼の胸に伝わってきた。

「でも、わたしは、うれしいわ。秀弘は、つらいでしょうけど。……わたしは、うれしい」

 頼子は、さらに強く窪原を抱いてきた。彼の胸の中で、頼子は目を閉じた。


「俺は死ぬことにしたんだ」

 彼女の行動を拒絶するために、窪原は言った。

 はっとして頼子は、身体を離した。窪原の顔を、じっと見つめる。

「いけないわ」

 頼子にそう言われて、逆に窪原は、さっきまで煮え切れなかった心情に区切りをつけることができた。

 彼は、頼子を腕で押しのけて、小屋のドアの向こうにある死に向かって、一歩踏み出した。


「待ってよ。落ち着いてよ」

 彼女は窪原の腕をつかんだ。

「秀弘は、本当に死ねるの? それでいいの?」

「今は、そう思っている」

「うそ。うそだわ。……秀弘がいなくなったら、わたしはどうすればいいのよ」

「それは……君は君で、どうにかすればいい。俺には、もう関係ないことだ」

 そんな冷たい言葉を平気で言える自分が、窪原は不思議だった。


 頼子の、彼の腕をつかんでいる力が緩んだ。しかし、すぐに力を取り戻す。

「ねえ……亜矢香……さんは、それで喜ぶのかしらね」

「どういう意味だ」

「あの人は、秀弘に生きて欲しかったから、現実に戻ることを許したんでしょ」

 頼子の言う通りなのかもしれない、窪原は思う。


「秀弘が、もし死んでしまったら、亜矢香さんが独りで死を選んだ意味が無くなってしまうんじゃないの? 違うかしら」

「でも、俺は亜矢香と心中したんだ。いっしょに死を選んだはずなのに、この島で、あいつを裏切ってしまった。心中したんだから、その事実が悪夢で判った時に、すぐに北の海に入るべきだったんだ。そんなことは、当たり前のことだったのに。それが出来なかったのは、俺が死を前にして、怖じ気づいて、体を夢中でさがしたからだ。なんてひどいことを、俺は亜矢香にしてしまったんだ。俺はもう、あいつを裏切ったままで、生きていたくないんだ」

「亜矢香さんは、死を恐がっている秀弘も許して、きっと海に入ることを選んだのよ。秀弘だけでも生きてと思ったのよ」

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