Part 5
うすら笑いを浮かべた老人が、二人のすぐ側を通り過ぎて行った。何か持っているような格好をしているが、何も持ってはいない。おそらく幻覚を見ているのであろうと、窪原は思った。自分では体の部分を持っていると信じ込んでいるのだ。
窪原は立ち止まってしまい、ぎくしゃく歩いて行く老人の姿をしばし眺めた。彼の胸にまた、やりきれなさが広がっていった。
*
まがいもののような太陽が、中天を過ぎた。人々に時計を持つ者はいない。この島では、太陽の動きだけが時の流れを知らせるのだ。午後になったからといって、人々の動きに変化が現れるわけではない。体さがしの作業が延々と続いてゆくだけだ。
もしこの島に、食事の習慣というものがあったら、人々の暮らしにかなりの彩りが添えられることになるだろう。食は少なからず人に慰安をもたらすものだからだ。しかし残念なことに、この島の人々は腹がすくことはない。ただ生死を分けることになる作業があるだけだ。
置部と頼子は、逆さまになった扇のような形の岩の上で、向き合って座っている。
彼が頼子を誘い、周りに比べてひときわ大きなこの岩に登ったのだった。岩を登ることは、それほど困難なことではなかった。まるでしつらえたように岩肌が突起し、ところどころに一休みできる場所があった。
この岩に限って頂上部は、どす黒い土で満たされていた。岩が周囲の縁から真ん中にかけて、おわん型にくぼんでいるからであった。
二人はその土を、先ほどからスコップを使って掘っていた。作業による汗が、二人の頬をつたっていた。
「それにしても意外だったわ。まさかこの岩の上に、わたしの体があるなんて想像もしなかった」
「そうでしょう。ここは盲点になっていて気が付きにくいんです。でも、僕はこの島の生活が長いんで、ここで見つけた人を時々見かけたことがあったものですから」
置部は人なつこそうな、人を安心させる笑顔を浮かべた。この表情が他人に対して効果的であることを彼は知っていた。
「……置部さんって、親切なのね」
「そんなことはないですよ。ただ何となく、あなたの力になれたらと思ったものですから」
二人は、それからまた黙って掘り続けた。
やがてどす黒い土の中から右の手が現れた。
瞬間、頼子は小さな悲鳴をあげた。
それは細くてしなやかなきれいな手だった。
置部はその美しさに、思わず視線が吸い寄せられる。今まで見ていた頼子の右手と同じはずなのに、身体から孤立している彼女の手は改めて違う印象を与えた。
頼子は、恐る恐るその手を穴の中からひろい上げた。
「ありがとう。置部さんのおかげだわ」
頼子は、うれしそうに笑った。
「どうですか。体を手に入れた気分は」
「何だか変な気分ね。でもこれは確かにわたしの右手……」
頼子はそう言って、しげしげと掘り出された自分の右手を眺めた。
「申しわけなかったわ。わたしのために、置部さんの大切な時間を使わせてしまって」
「そんな気にしないでくださいよ」
「置部さんは、自分の体をさがして。これ以上は悪いわ。わたしはもうだいじょうぶだから」
「……そうですか。でも、今日は夕方からにしようと思ってるんですよ。何となく気分が乗らないんです」
もちろんそれは嘘だった。置部は夕方から他人の首さがしをするつもりなのである。
「余裕があるのね。わたしも置部さんのようになれたらいいんだけど」
「なれますよ。長くいると自然とそうなるんです」
「そうかもしれないけど……」
置部はその時、ある考えが閃いた。頼子の頭部をもし手に入れることができたら……。僕は彼女とこの島で、しばらくの間は楽しく暮らせるかもしれない。彼は自分の住居の中だけでする陰湿な笑みを、思わず浮かべてしまった。
「どうかなさったんですか」
頼子が不思議そうに訊ねた。
「いや、何でもないですよ。……ところで頼子さんは、写真のこと以外に昨晩どんな夢を見たんですか」
置部は、あわてて話題を変えた。
「そうね。……悪いんだけど話したくないわ。また思い出してしまうもの。……嫌なことばかりを録画したビデオを見ているみたいだったから」
「それはそうでしょうね」
「そうよ」
置部と頼子は微かに笑った。
気持の良い風が、岩の上を通り抜けていった。頼子の長い髪が、少しばかり揺れて乱れる。彼女は髪を直しながら、周りを見渡した。
「こんなことでここにいなかったら、けっこうきれいな島よね」
「ええ。僕もこの島の風景は気に入ってます。なんかシンプルなんですよね」
「そうね。すっきりしてるわ。飽きがこない風景というか。だから置部さんは長い間、この島にいられるのね」
「そうかもしれないな。……さて、用が済んだら下りますか。やっぱりどうにも落ち着かなくて。今にもこの岩が倒れてしまいそうな気がするんです」
置部の提案に、頼子は同意した。
二人は落ちないように細心の注意をはらいながら、下り始めた。右手を持ちながらの頼子は、なかなか下りる動作を早くすることができない。加えて地上に向かうごとに形状がすぼまっているため、登る時よりも下りる時の方が、より不安を引き起こし身体を委縮させる。再び地上に立つには、小一時間ぐらい掛かりそうだった。
「落ちたらどうなるのかしら」
ふと、頼子は独り言のように呟いた。
「……そうですね。骨が折れたり血が出たりはしませんが、それに相当する痛みや腫れはありますよ。ですから、気を付けてください。けがをしたのと同じ結果になるんです。二、三日は動けなくなりますよ。まあそうなっても、間違いなく死には至りませんけどね」
「あっ」
頼子は、置部の言葉に気を取られ過ぎて腕の抱えていた力が弱まり、すっと掘り出した右手が離れてしまった。あわてて片腕を伸ばすが、地の上に吸い込まれるように、彼女が見つけた大事なものは落ちてしまった。
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