Part 7

 窪原は暗闇の中、目覚めた。この夢の中の世界で、また夢を見ていたのだった。しかしその夢は、脳が作り出すあやふやなものではなく、もっとしっかりしたものだった。過去を忠実に再現した記録のようなものだという感覚が、窪原にはあった。そしてそれは、彼にとって思い出したくもない嫌な過去なのであった。


 あの女は誰だ、窪原は考える。今見た夢の内容のほかは、依然として何ひとつ思い出せなかった。自宅に女と同居していることは明らかだから、そこから考えるにおそらく妻なのだろうと彼は思った。それにしてもなぜ、あんな冷ややかな生活を送っているのか。夢の中で、彼女に言葉ひとつ掛けることができなかった。俺はあの女を愛していないのだろうか。結婚生活は破綻寸前なのか。いや、今の現実の世界では、既に破綻しているかもしれない。離婚して別々の人生を歩んでいる可能性もある。なにしろ判っていることは、過去であるというだけで、それがいつ頃のことなのかは、はっきりとしていないのだから。

 窪原は考えているうちに、また眠くなってきた。彼は大きなあくびをひとつすると、目を閉じた。……




 ……広い机。書類や文房具が雑然と置かれている。その先に初老の男が座っている。

 人の話し声や、電話が鳴る音や、コピー機の動く音が、入り混じって聞こえている。


「困るんだよ、窪原君。こんなことされちゃあ。初の打ち合わせをすっぽかすなんて考えられないよ。すっぽかされた方には、私がねんごろに謝って、何とか契約取消だけは免れたけど」


「すいません。ダブル・ブッキングになっているなんて、全然気が付いてなかったものですから」


「うちも、そんなに大きな会社じゃないんだからさ。お得意さん一人一人を大切にしていこうよ」

「はあ……」


 男から視線を逸らして、後方にある窓の外を眺める。

 ビルの間からのぞく白い雲。爽やかな陽射し。いい天気だ。

 公園のベンチにでも寝そべって、ひなたぼっこしたいな、と思う。そこでゆっくり眠れたら最高だろうな。だいたい、この仕事は忙し過ぎるんだ。だから、こういう単純なミスをやらかしてしまったんだ。


「何をぼーっとしとるんだね。早く仕事に取り掛かりなさい。たしか午後の仕事の準備があるだろう」


「はい。そうでした。すいません」

「しっかりしてくれ。私は窪原君のスケジュール帳じゃあ、ないんだよ」


 歩いて自分の事務机に行く。

 同僚から声は掛からない。みな自らの仕事に没頭しているように見える。


 机には汚く書きなぐった報告書の下書きや、ぼろぼろになってページの片隅がめくれあがっているマニュアルやカタログ、使い古した電卓、メモが書かれた卓上カレンダー、ワープロ、携帯電話、その他自分にとって無意味な物の群れ――人生の時間を引き裂く小道具。……




 窪原は、また夢から醒めた。なんでこんな嫌な夢ばかり見るんだろう。しかも思い出したくない事ばかりを。


『夜が耐えられればですけどね』置部の言葉が頭の中で響いた。


 そうか。夢を見ているのではない。見せられているのだ。眠ると嫌な思い出を見せられるのだ。昼は体をさがし、夜は悪夢を見せられる――それが、この島の生活なのだ。


 窪原は、もう眠りたくなかった。このまま朝を迎えようと思った。しかし非情にも睡魔は訪れ、彼をまた眠りに誘い込む。三番目の夢は趣を、だいぶ異にしていた。……




 ……歩き回れるぐらいの広さの立方体の部屋にいる。ぺたりと座っている。

 四方のクリーム色の壁に微細なひびが全面に入っている。

 調度類が何もない殺風景な空間。


 壁のひびを見ていると、イライラと共に不安がつのってくる。

 ひびの間から血が滲み出してくる。思わず目をそむける。

 視線が天井に移る。


 天井は同じクリーム色だが、ひびは一切ない。のっぺりしていて、光沢がある。壁に比べて穢れのない清浄なもののように思える。天井を見つめ続ける。


 突如、蛇の尻尾のようなものが、すっと天井の中央に現れる。天井が水面になったかのように揺れ始める。水底にいるような気がする。

 尻尾は、くねくねと揺れながら伸びてくる。


 さらに伸び続け、揺らめきが大きくなる。

 尻尾の先端が、時々顔に触れるようになる。べとべとした、気味の悪い感触。


 避けるために、這って部屋の隅に逃げる。

 壁のあちこちから、血が滴り落ちている。もう半分くらい赤く染まっている。


 少しずつ生きものが降りてきて、全体をあらわにする。尾が異様に長いトカゲのようなかたち。表情のない子供の顔が頭部に貼りついている。男なのか女なのか区別がつかない。

 金縛りにあったように、その顔から視線を動かせない。


 生きものは床に降り立ち、のっそりと近づいてくる。

 無表情の子供の口から舌が出てくる。先が二股に分かれた舌。炎につつまれている。

 ゆらゆらと蠢く炎が伸びて、踊りながら迫ってくる。


 目の前に来たところで、突如口が開く。

 視界が炎、炎だけになる。

 両方の眼球が溶けるように熱く、しかも猛烈にかゆい。

 転げ回っても、炎の舌から逃れられない。眼球が、焼け尽くされる。……

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