三本の猫の手

山猫拳

第1話

 オリガは十本の猫の手と七万を持って、けわしい山道をとぼとぼと街へ向かって下っていた。親方が借りた猫の手を返しに行くためだ。

 オリガは、ハシェック親方の経営する大きな農場で働いている。この農場は、月末になると決まって忙しくなる。忙しくないときでも、朝早くから夜遅くまでずっと働かされている。人手が元々足りていないのだから、いつもより仕事の増える時期に人手が足りないのは当たり前なのだ。街が近づいて、商店や人家が立ち並ぶ通りが見えてくると、オリガは大きく溜息ためいきいた。

「どうして私が返しに行かなくちゃならないの……?」

 親方の借りた猫の手は十本。猫の手は一本につき一万で、街の薬屋くすりやが貸してくれる。お代は返す時に支払うのがルールだ。


 牛の寝床ねどこわらき集める作業をしている時、親方に声を掛けられた。オリガに猫の手を返してきてほしいと言うのだ。いつもはおかみさんの役目なので、少し驚いた。だが、その理由を聞かされて、なるほどと思った。

 今回借りた猫の手は、三本が役に立たなかったから、三本分は代金を払いたくない。おかみさんにそのことを言うと、店主とめるのはごめんだと言う。親方も薬屋の店主は苦手らしく、七本分の代金と猫の手を持たせるから、薬屋に返しに行ってこいということだった。

「そんな……。でも十本借りたのですし、払わないというのは……」

「役に立たない猫の手をつかまされたんだ。店主に文句を言って七本分で何とかしてこい。うまくできたら、お前の来月の給料を少し多めにしてもいい」

 親方はオリガを見てにやにやと笑った。このところ親方は何かにつけ、オリガに用事を頼むことが多い。オリガのことをじっと見ていることもあるらしく、ふと後ろを振り返ると親方と視線が合うことが何度もあった。少し気味の悪い気持ちではあったが、家にはまだ小さな妹と弟がいる。給料が少し多くもらえれば二人に美味しいものを食べさせることができる。

「分かりました。では、返してきます」

 オリガは親方から猫の手十本と七万を受け取って、薬屋へと向かった。


 街に入るとまず、大きな通りに出た。ノイマン薬店くすりてんという店はこの大通りからかなり外れた狭い路地にある細長い店らしい。最近では猫の手を貸すことは、国から取り締まりの対象とされているため、外れにある怪し気な薬屋などが貸すことが多いらしい。オリガは途中で何度か道を間違えたが、何とかノイマン薬店くすりてんに辿り着いた。

「あの……すいません。ハシェック親方の者です。猫の手をお返しに来ました」

 すすけた重い木の扉を少しだけ開いて中に顔を入れ、オリガは小さく声をかけた。中から返事はない。オリガはもう少し大きく扉を開いて片足を店内に踏み込んで、もう一度声を出す。

「すみません。ハシェック親方の使いです。どなたかいらっしゃいますか?」

 今度も返事はなく、オリガはどうしようと少し迷ったが思い切って店内に入った。店内は甘いお菓子のような良い香りが、ただよっていた。オリガはお腹が空いていたので、その香りに吸い寄せられるように、そのまま店の奥へと歩いて行く。

 店の奥の壁には小さな引き出しがびっしりと並んでいて、その前に黒い髪を肩まで伸ばした、背の高い男の人がいた。手には液体の入った硝子瓶がらすびんを持っている。彼はその中身の香りを確かめるように、ガラスびんの口付近を片手で扇いでいた。甘い香りはそのガラス瓶から漏れている様だった。

「あの、すみません……」

 オリガが声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。オリガが住んでいる地域では珍しい東洋人だった。

 まるで毛穴の分からない陶器のような白い肌。切れ長の目に黒い瞳。細い鼻に薄い唇。女性的な相貌そうぼうの彼は、笑っているのか、悲しいのか怒っているのかオリガには判断がつかず、その後の言葉が上手く出てこなかった。

「あぁ、すみません。お客様でしたか。インドから取り寄せたばかりの珍しい薬剤につい夢中になってしまって。どうぞ、ご用件を伺いますので、そちらへ」

 今度はオリガにも分かるくらいに、笑顔で話しかけてくれた。この怪し気な薬店の店主が若い東洋人だったので、オリガは少しどぎまぎしながら、彼の後に続いた。東洋風の椅子とテーブルのある一画に案内され椅子に座る。店主は、オリガのあとに席に着くと、にっこりと笑いながらオリガに話をうながす。

「ね、猫の手を……親方がお借りしていまして、それを返しに来ました」

「あぁ、ハシェックさんですね。いつものおかみさんではないようですが……。今月も役に立ちましたか?」

「今日は、私がおかみさんの代わりです。その……これ、猫の手と、代金です」

 店主はオリガがテーブルの上に出した猫の手十本とお金を一瞥いちべつすると、オリガをちろりと見る。

「どうやら……お代が足りないようですね。一本一万のお約束ですが?」

「さ……三本は、役に立たなかったって親方が、そう言って……それで私、七万しか持たせてもらえなくて。七万しか、持ってないんです」

 店主はオリガの言葉に、左の眉を少し上に動かしただけで、特に驚いた様子もなかった。

「それは、それは……。お役に立てなかったことは私も悲しいです。けれど、お嬢さん。お貸しすることが一万なのです。ですから、料金は十万です」

 店主は先ほどと同じようににっこりと笑ってオリガに話しかける。オリガはそれが余計に怖かった。お金が足りないと言って、親方みたいに怒ってくれた方がまだ分かりやすい。

「私も、親方にはそう申し上げたのですが……七万しか持たせてもらえなかったのです。どうか、これでこらえていただけないでしょうか? 私が親方に怒られます……」

「はぁ……、困りましたねぇ。あなたにお金を出させるのも可哀そうです。ハシェックさんはそれが狙いなのでしょう。そうですね……」

 店主はテーブル並べられた猫の手をじろじろ見て手に取って何かを調べ始めた。そして三本と七本に分けて並べた。

「この肉球にくきゅうにバツ印がついている三本が、恐らく役に立たなかった三本なのでしょう。何故役に立たなかったのか、私は興味があります。原因が知りたいです。お嬢さん、この三本が役に立たなかった原因を教えてください。原因が分かれば改善できます。そうすれば、今回の三万は調査費用としてあきらめましょう」

 オリガは目を見開いて店主を見た。農場でしか働いたことのない自分に役に立たなかった猫の手の調査なんて、出来るはずがない。

「私は、ただ農場で牛や馬や豚の世話と、畑仕事をしているだけです。役に立たなかった原因なんて……分かるとは思えません」

「もし、分からなかったら、お嬢さん。別の手段で埋めていただくまでです。そのためにハシェックさんは、おかみさんではなくあなたを寄越よこしたのでしょう」

 オリガはぶるぶると身震みぶるいをした。東洋人は人間の一部を薬にすることがあると、どこかで聞いたことがある。まさか自分は薬の材料にされるのではないかと思うと、身体が震えた。やるだけやってみなくては、とオリガは自分をふるい立たせた。

「分かりました……。で、では一本目を……」

 親方は借りた猫の手を様々な仕事に使う。バツがついた猫の手を一本手に取る。猫の手は泥で汚れていた。バツのついてない七本の中から、同じように泥で汚れている猫の手を抜き取る。オリガは二つの猫の手を色々な角度から眺めた。毛や肉球を触って硬さやツヤを比べたりした。泥のついている猫の手は、どちらも豚の小屋で使われたものだ。匂いで分かる。豚たちが小屋の扉を勝手に開けて出入りするので、見張りが必要だった。この猫の手は、見張りの代わりに使われたものだ。

 扉をしっかりと閉めて、豚たちの体当たりに耐えなくてはならない。たしか一昨日、いくつかある豚小屋の一つから豚たちが逃げ出した。親方は逃げた豚を捕まえる為に仕事が増えたと怒っていた。きっとこの猫の手はその時の手だ。


 オリガは、困った。同じように見える。何が原因か分からない。もっと良く観察しなくては。扉を閉めていられない原因……。

 考えながら肉球にくきゅうをふにふにと押してみた。すると、役に立った方からは鋭い爪が現れた。しかしバツのついた方からは、短くちびた丸い爪が少し出ただけだった。

「わかった! この一本目の手は爪がちびているのよ。だからしっかりと扉を閉めていられなくて、豚たちが逃げ出した」

「なるほど……。爪でしたか。確かに違いますね。では次を」

 ――――――


 おれはそこまで読むと、横に人の気配を感じて本から目を上げた。やはりおれのカンは当たっていた。

「篠崎、何読んでんの? ……物語でわかる! 基礎のFTA……何これ」

「来週、信頼性セミナーに部の代表で参加できることになったんで、予習してるんですよ」

「へぇー。良さげだったら貸して」

「うーん、何すかね。抽象的ちゅうしょうてきすぎるっていうか。役に立つか不明ですけど……」

 戸倉さんは俺の手から本を取り上げるとページにさっと目を通す。

「うーん、なるほど。猫の手は不具合を起こした製品ってことなんだな……。なんで猫の手なんだ。どういう時代? あっ、これ本当かな。ほら、ここ。これが世界最古のFTAと言われているって」

「いや、そんなわけないでしょ。フィクションですよ、これ」

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