持国天の受難(後)

 バサバサッと音がして、羽がゆらめき、地に降り立った者。ガンダルヴァだった。


 鳥人は両手を合わせ、白い土くれを持っていた。

「私のいない間に、ずいぶんと静かになりましたね。お三方は、まだかなりのお取り込み中のようですが、失礼いたします。どうしてもお知らせしたいことがありまして」

 ガンダルヴァは、そう言って笑みを浮かべると、言葉を続けた。

「巻物は、経がくまなく書かれていたもの。焼かれたとしても、簡単に滅するはずはないと私は考えました。焼かれた場所を捜しに行き、焚き火のあとを見つけました。そこに巻物は、まだ有りました。白い灰からこの土くれとなって」


「おお、風にも飛ばされず、残っておったのか」

「バスウなら、ご存知のはず。巻物はとても重い。それに木々の熱をともなった湿り気を吸い込んで、すぐに固まったのでしょう。その証拠に――」

 ガンダルヴァは、土くれを鼻に持っていき、それをかいだ。

「とてもひどい臭いだ。私などは、吐き気がします」


「だから。灰が土くれになったから、何だというの」

 ヤマラージャは分からなかったが、持国にはガンダルヴァの意図が読めた。

「そうか。〈よみがえり濃霧〉を使うのだな」

「そのとおりです。持国様」


「今から飛び立って、〈伸縮龍〉に乗れば今日の夕ぐれに間に合うかもしれない。頼む」

「持国様。夕ぐれに、それは出るのですか」

「そうだ。はっきりとした場所は、判るな」

「知りませんが、城の女たちにでもやってもらいます。ひとりぐらいは詳しい者がいるでしょう。放牧場の近くは、ご勘弁願いたい」

 そう言って、ガンダルヴァは翼を広げた。

「激しい水しぶきに、土が溶けないように注意しろよ」

「判ってますよ。この羽で守ってみせます」

「龍に頼んで、特別に賢上城の門まで運んでもらうんだぞ」

「承知してます。ついこの間、羽が濡れてひどい目にあったばかりですから」

 飛び立ちながら、ガンダルヴァは言った。


 金色に輝く美しい飛び姿は、すぐに見えなくなった。


 持国は、両肩に激しい痺れと疼きを感じていた。鎧の内側の衣が下の方まで暖かく濡れているのが判った。


「持国天よ。本当に巻物はわしのもとに帰ってくるのか」

「我が保証する。うまくいけば明日にでも渡すことができる」

「そうとなれば、まだ〈常闇の無〉に行くわけにはいかない」

 バスウは、かたわらに置いてあった杖を手に取った。


「巻物がもとに戻ったとしても、わたくしの憎しみが消えるわけではないぞ。バスウ」

 ヤマラージャは、再び黒の双剣を振りかざす。持国は、痛みをこらえて両手をひろげた。

「いいかげんにしろ! お前は地獄を管理する者だろう。お前の憎しみが強いのは判るが、だからこそ、それを胸の奥底に沈めなければならない立場のはず」

「人を裁く者は、自己の憎しみを抑えてでも清廉潔白であるべきだと」

「そうだ」


 持国は、肩から流れ出る血が止まらないのを感じていた。あきらかに致命傷ではないが、肩を動かせなくなるかもしれない、と思った。意識もぼんやりとしてきている。だが、今は倒れるわけにはいかない。今はまだ……。


 ヤマラージャは顔をゆがめ視線を落とし、肩を揺らして考えていたが、やがて双剣の色がもとの銀に変わった。彼女はそれをゆっくりと下ろし、もも当ての鞘に収めた。

 表情が、やわらかなものに変わっていた。


「持国の言う通りかもしれない。もしバスウを殺めたら、今までわたくしに裁かれてきた幾十億の罪人の魂たちが、地獄どころか金輪際までわたくしを引っぱってゆくことでしょう」

 そう言って、彼女は持国の横を通り過ぎ、まだ座っているバスウのかたわらに立った。

「苦行を極めた仙人よ。地獄の管理者であるわたくしは疑り深い。飛び立った鳥人が巻物をもとに戻すと言っていますが、実物を見るまでは信じられません。それまではわたくしと行動を共にしてもらいます。あなたがまた《魔》に取り込まれないように。それでよろしいですか」


「もし巻物が戻らなかったらどうする」

「そうなったら――分かりません。でも、もう殺めることはないと思います。憎しみが消えることは決してありませんが、それと共に過ごしていくことにしました。信用できませんか」

「いや。信じる。そもそもわしは、〈常闇の無〉に送られても仕方がないことを、いくつもしたのだ。本当にすまなかった。もし巻物が戻らず、また地獄の責め苦を受け続ける生活になったとしても、わしは耐えるよ」

 地獄の管理者は、バスウの言葉に微笑んでうなずき、それから持国の方を見た。


「わたくしの怒りを宥めてくれてありがとう。もとに戻った巻物を手にしたあかつきには、地獄に来てください。歓待しますよ」

「そ、そうだな……承知した」

 ヤマラージャは、鎧のかくしから、小さな土鈴を取り出した。持国に手渡す。彼は、それを左手で受け取った。

「その土鈴を大陸のどこかで五つ鳴らしてください。すぐにまいります。明日とか、そんなに急がなくてけっこうですよ。バスウには、いろいろ考えてもらう時間が必要だし。それにあなたは、小鬼が目覚めるまでここに――持国、だいじょうぶ?」

「……たいした傷ではないから、心配するな。我の剣がお前に通用しなかったように、お前の剣も我には通用しない」

「ごめんなさい。ひどいことをしてしまった」

「すぐに治る。また会おう」


 ヤマラージャは、なおも心配そうに持国を見つめたが、自らの左胸に手をあてて、既に血が止まっていることを確かめると、言った。

「だいじょうぶよね……わたくしがだいじょうぶだったように」


 杖をついて立ち上がったバスウを連れて、ヤマラージャは乱刻山の頂上をあとにした。

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