持国天の受難(前)

 ……持国は青の宝珠を右手で握りしめていた。


 乱刻山の頂上は、静寂に満ちている。

 持国たちを追い詰めた《魔》は、死体もろとも全てあとかたもなく消えていた。


 何だ。今の幻覚は、持国は思う。


「その宝珠は、あなたのものだったのね。あなたの肌の色が、その証拠」

 ヤマラージャが微笑んでいた。


 持国は彼女に宝珠を差し出し、返そうとした。

「いいのよ。それはあなたのもとに帰った。わたくしは迷子になった宝珠を、持ち主に運んだまでのこと。そういうことにしましょう」

「それではヤマラージャが、宝珠を持たない者になってしまう」

「気にしないで。わたくしは他に宝珠を五つ持っているのだから。そんなことより」

 彼女は兜を再びかぶり、バスウが大法力を放っていた場所を見た。持国も視線を移す。


 バスウの姿は、まだそこにあった。


 ヤマラージャと持国は視線を合わせてうなずくと、バスウのもとに向かって、走り出した。


 ふと持国は、なぜか尋常ではない殺気を感じた。

 走りながら彼は宝珠を握った右手で印を作り、剣に触れ、柄の青い瞳を現出させて、今一度〈離空剣〉を発動させた。


 仙人は、いばらの敷物から離れて、座って瞑想をしていた。杖は地面に置かれている。

 バスウは目を開けた。その瞳は、地獄の管理者をじっと見据えた。どこか冷めた落ち着きをもった瞳だった。悲しみをたたえた瞳。


「殺しにきたのであろう。ヤマラージャ」


 仙人の言葉に持国は驚いて、彼女を見た。

 ヤマラージャは、両手で印を結んだ。そして双剣を抜いた。

 剣の色が、さっきまでの銀から、どす黒い色に変わっていた。なにか黒い気のようなものが、ゆらめいている。


「さすがはバスウ。わたくしの心を見抜いたのね。千手様から賜った巻物を失ったことは、魂を〈常闇の無〉へ送ることに値する。わたくしは、この剣でお前の命を絶ち、そこへ送る」


「そうじゃな。巻物を焼かれたことは、わしの最もひどい失態じゃった。《魔》の力を借りて、復活させた法力も、もとの微弱なものに変わってしまった。もはや生きながらえる気力もない。だがの、ヤマラージャ。まだ、本当のことを言っていないのではないかな。それを言ってから、わしを斬れ。〈常闇の無〉へとわしを送れ。でなければ死にきれぬ」

「…………」

「ただ、わしが憎いだけなのだろう」

「そうよ! 女だけの修練場に忍び込み、仲間を犯して殺し、わたくしを化け物のようにさせたお前が、ただ憎いだけよ! だから斬る!」


 ヤマラージャは、黒の双剣を振りかざし、バスウに斬りかかった。黒い気が残像のようにただよう。


 刃と刃が、ぶつかり合う音がした。


 持国の剣が、それを止めたのだった。持国は、バスウの前に立ちふさがった。女剣士は、いったん引き下がり、彼らと間を取った。


「止めるな! 持国!」

「バスウを憎いだけで殺めたら、お前が地獄の罪人になってしまうぞ」

「それでもかまわない。わたくしは、こいつが地獄にいた時から憎かった。だから最高の責め苦を与えて法力を弱めてやった。菩薩様に許された時は絶望したわ。あげくに千手様に仕えるですって? わたくしの身体に流れている五人の血が、そんなことは耐えられないって叫んでいるわ」


 持国は、〈離空剣〉を放った。剣が彼女の背後に回る。

 彼の視界は、次々に入れ替わった。ヤマラージャの、兜をかぶった顔。鎧におおわれた背中。近づく顔。心臓のあたりの背中。顔に左側から拳。回って白い空。拳が顔に炸裂して、自らの腕、下方に剣の先。白い空。胸を貫いた剣の先。

 剣はヤマラージャの背後から左胸を突き刺した後、引き抜かれた。そして剣は、そのまま地に落ちてしまった。さすがに持国の集中が途切れたのだった。


 彼女の胸から血が、わずかに噴き出す。

「はあ……」

 ヤマラージャの目が閉じられ、彼女は膝折れて、あお向けに倒れた。


 持国は膝まづいて彼女に寄り、肩に手をかける。

「すまない。ヤマラージャ。こんなことは、したくなかったんだ」

 すると、彼女の目がぱっちりと開いて、剣を握った拳で持国をはらった。ヤマラージャは、ちょっと痛そうな顔をして、拳で胸を押さえる。が、すぐに立ち上がった。

「わたくしの意識を一瞬でも奪うとは、さすがは四天王のひとり。見事だったわ。でも、残念ね。わたくしは五つの心臓が、体のあちこちに散らばっているの。このくらいなら、たいした傷ではないわ。それに少し心臓を外れているわよ。もう邪魔はしないでね」

 そう言って、ヤマラージャは持国を蹴り飛ばし、双剣を胸の前で交差させ、バスウの頭上へと跳躍した。後に残るは、黒い気。


 ――まずい。

 振り向くと、バスウは杖を取ることなく、ただ上方を見ている。

 持国は反射的に動いて、バスウをかばった。

「ぐうっ……」

 両肩に感じたことのない激しい痛みが走った。持国の両肩に、鎧を破って双剣が突き立てたられたのだ。双剣が肩から引き抜かれる。両肩から血しぶきが上がって落ちた。


「まだはばむか、持国! ならばお前も〈常闇の無〉へ行け!」

 ヤマラージャは、持国に向かって両方の黒剣を横に寝かせて連続斬りの構えを取った。

 その時、彼らの頭上から、金色の羽が二枚、三枚、はらはらと降りてきた。

 双剣の女戦士は、思わず構えをゆるめた。


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