死火山の仙人

青山獣炭

果樹の繁る中庭で

 四天王のひとり――持国天は、右手で自らをあらわす印を作った。人差し指を鍵型に曲げ、薬指を伸ばした形。それが彼の印相なのである。


 彼は薄くしなやかな白い衣をまとっていた。あらわになっている腕や足の筋肉は盛り上がり、その肌の色は青。いくぶん霞んでいるような落ち着いた青だ。


 彼は左手で幅広の剣を高く掲げて、その剣に右手の印を持っていき、そっと触れた。

 ――と。

 剣が振動した。

 と同時に、持国の脳髄にもう一つの視界と云えるものが、だしぬけに現れた。微かに光を感じるものの、闇におおわれた視界。


 持国は、剣を握っていた左手を少しずつゆるめた。そうすると、彼の脳髄の中にある視界も徐々にひらけてきた。


 左手を離しても剣は静止したまま、空間にとどまっている。


 剣の柄の部分に青い瞳をした目がひとつ、浮かびあがっていた。持国の肌と同じ色をした、青い瞳。


 彼の脳髄の中に出現した視界には、いくつかの黒味がかった紫色のしなびた果実。それを実らせた背の低い樹木。果実とは対照的に、その葉は陽射しに応えて照り輝いている。その光景は、持国自身の目が見ているものと同じだ。


 ここは〈果実酒の中庭〉と名づけられた場所であった。


 持国は意識を集中して、剣の目を閉じた。すると、剣は滑るようにして彼の後ろに移動し、回ったり突いたり止まったり、まるで踊っているかのように動きはじめた。


 空中を乱舞し続ける幅広の剣。それは、持国のかけがえのない相棒だ。


 その剣の動きを注意深く観察している者がいる。

 鳥人。尻には羽毛が生え、そこから鳥のか細い足が地上まで伸びている。顔と半裸の体は鈍い赤色をし、細身ながらその筋肉は引き締まっている。背中には折りたたまれた黄金色の翼。

 名を、ガンダルヴァと云う。鳥人は、持国の従者であった。


 持国は、腕を交差し息を大きくつくと、目の前の空間に向かって拳を繰り出し、蹴りを入れ始めた。

 そうしながら、彼は意識を剣の目に向けて、開くように命じた。


 するとその瞬間――剣の動きは止まり、そのまま緑草におおわれた地面に落ちた。柄に浮かびあがっていた目は、あとかたもなく消えていた。


 ガンダルヴァは肩をすぼめて首を振った。

「持国様。これではだめですね。とても実戦には使えないです」

「判っている。だから練習しているんだろう。日が昇った時から」

「そうだったのですか。それは御苦労様でした」

「何の用だ。例の件で、何か動きがあったのか」

「持国様に用があったわけではありません。昼食に、この果実の香りをいただきにまいりました」


 ガンダルヴァは、中庭を取り囲むようにして生えている木々のうちの一本に近づいた。

「なんて奥深い香りだ。甘やかなのに刺すような刺激もある。そして、南国の花のような華やかさがある。芳香とは、まさにこのようなものを云うのでしょう」

 そう言ってガンダルヴァは、次々にしなびた果実を手に取って、その香りをかいだ。鳥人の折りたたまれていた翼が、ふわりと広がった。


 持国は別の木の果実を、ひとつもいで口に含んだ。果肉のとろける舌触りと共に、酔いにいざなう果汁が口の中にひろがり、喉にすべり落ちてゆく――。


「昼間からお酒ですか。持国様」

「ひどく疲れたから、食事をしたら少し眠ろうと思ってね。神経が高ぶってるんだ」

「そうでしたか。夕方近くに、ピシャーチャから何か報告があるかもしれません。先ほど空高く舞い上がったら、この山を昇っている小鬼の姿が見えました」


 ピシャーチャと云う小鬼もまた、持国の従者であった。


「そうか。では、ガンダルヴァも同席してくれないか」

「残念ながら、今日の夜は演奏の宴があるのです。午後からは、楽団の指揮をして音の調整をしなければなりません。自らの横笛の練習もありますし」

 ガンダルヴァは、持国の従者であると共に楽士でもあった。

「では、また明日に。戦いが近いことは、存じております」


 鳥人は、黄金の翼をひろげ、勢い良く飛び立った。あっという間に空に吸い込まれてゆき、見えなくなる。


 持国は気まぐれに、ガンダルヴァが香りを吸った果樹に近づき、ひとつ手に取りかじってみた。口の中に消毒薬のような液体がひろがり、思わず吐き出す。

 やれやれ、何年もかけて育てた果実がだいなしだな、持国は思った。


 ガンダルヴァは良き香りだけを吸って、命をつないでいる者だったのである。


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