猫の

虫十無

1

 猫の手も借りたい、というのは結局慣用句だから、基本的にそれほど忙しいなら人員を増やすだろう。現実の猫はかわいいだけで、手伝ってはくれない。それに比べてまあ人間、アルバイトのできるくらいの人間ならどんなに使えなくても猫よりましだろう。この事務所もまあそういうことでアルバイトを一人雇うことになった。


 アルバイトの彼は仕事は人並みにできる。けれど、どうも物を散らかしてしまう。ほかの指示にはすぐに従うのに、なぜか片付けてという指示だけは無視する。彼に任せるのは細々した手が回らない簡単な仕事だけだから、それに使うものといってもたかが知れてるのに、なぜか彼の周りはいつも散らかっている。

 猫みたいだね、と誰かが言った。猫だったら、どんなに散らかしてもかわいいねえで終わるような猫派がこの事務所にはいっぱいいる。いや、みんな猫派で程度の違いがあるだけかもしれない。もしかしたらこの事務所には猫でもよかったのかもしれない。みんなが猫で士気をあげるのならば人手不足にはならなかったのかもしれない。まあそれは長続きするものではないので素直に人員を増やしてよかったと思うが。


 ニャオウと鳴く声が聞こえる。事務所の中から。けれどそんなはずはない。まだ鍵が閉まってる。誰もいるはずがない朝の八時半。鍵を開ける。猫が飛び出してくる。捕まえるべきかと迷っているうちにどこかに行ってしまう。

 事務所の中はさすがにそこまで荒らされてはいない。大体のものはきちんとしまってあるから。けれどアルバイトの彼の席の周りだけ、少し荒れている。帰る前に片付けたはずなのに。

 ひと通り確認する。なくなってるものはなさそうだ。あの猫はどこから入ったのだろうと侵入口を探すが見つからない。とりあえずみんなに報告と注意をする。戸締りをする前に不審なものがないかを確認すること。


 次の日も、その次の日も猫は入り込んでいた。猫は頭が通る隙間なら通れるとも言うし、どこか思っているより小さい抜け穴があるのかもしれない。

 不思議なことは一つ。アルバイトの彼の席の近くに物が増えていることがある。いや、猫がいると必ず荒れているから気付きにくいだけでもしかしたら毎日何か変わっているのかもしれない。

 物は大概小さくて身につけるものだ。彼が身につけている物みたいだけれど、彼が落としたのであれば前日の掃除のときに気付くはずなのに。


 猫が飛び出してくる日と猫がいない日がある。どちらであっても前日掃除したときよりも少し荒れているから、もしかしたら猫がいない日は猫がさっさと帰った日なのかもしれない。

 けれどなぜ彼の席の周りだけが荒れているのだろう。彼がマタタビでも持ち込んでいるのだろうか。


 猫が飛び出してくる。けれど今日はすぐに逃げるわけではないみたいだ。一度振り向く。目が合う。その目に見覚えを感じた。

「あなたは……」

 声をかけようとするとニャオウと鳴いて走り去っていった。

 その日からアルバイトの彼は来なくなった。私はあのニャオウは肯定の意味だったのだろうかと思っている。彼の給料は渡しそびれてそのままだ。


 猫のままでもよかったのかもしれない。だって彼は仕事がひと通りできたから。ここには猫派が多いから。きっといろいろな方法で役に立ってくれただろう。

 人間は他の動物より人間を信用するし、猫は気まぐれだからそれらがかみ合ったのかもしれないけれど。

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