第30話 過去

 ディエスの母親——カテナは、百年程前にネブラ王国内で起きたクーデターにより、国境に逃げたネブラ王国民の子孫だった。


 クーデターが起きた当時、首謀者側が他国の介入を許さず、今に至るまで国交断絶が続いている。

 当時、魔石の原産地であり民のほとんどが魔力保持者のネブラ王国に、アルカ王国とグラキエス王国も口出しは出来ず、アルカ王国国境の壁外に作られた難民の街を黙認することしか出来なかった。

 カテナはそんな街の娼館で生まれた。


 娼館はネブラ王国から逃げた貴婦人たちが、宝石や魔石を売り尽くし最後の手段で始めたものだった。

 警護に当たっていた使用人をそのまま娼館の用心棒に雇い、子どもはもちろん、望まない者にも他の仕事を与え客を取らせず、決して安売りもしなかった。


 アルカ王国内では『混ざり者』と蔑まれる、人とは違う容姿のネブラ王国民だが、男女問わず美形が多かった。その貴族の貴婦人となれば教養も備えている。

 始まりは娼館でも、助平なアルカの貴族から、サロンにいるような文化人も加わり、秘密の商談に使う商人等々、徐々に客層は広がっていった。

 カテナはそんな混沌とした館の中で生まれ、育てられた。


 娼館の女主人は、成人したカテナに二つの選択肢を与えた。

 このまま館で娼婦として働くか、あるいは館を出て他の仕事に就くか———その二つだ。

 当時の娼館では、娼婦以外の人員を働かせる余裕がなくなっていた。


 彼女は迷わず前者を選んだ。

 仕事のキツさ辛さは他の娼婦を見ていて理解出来るし、覚悟もしていた。

 ここ以外を知らないカテナにとって、外の世界で生きていく方が恐ろしかったのだ。

 何より母親をはじめ、娼婦たちは彼女にとても優しかった。

 外からは歪な環境に見えていても、彼女には唯一の安息の地だった。



「幸か不幸か、彼女の最初の客が我が兄、ルーメン先王だった」

 ノクスが溜息混じりに呟いた。

「ルーメン兄上は『英雄色を好む』を地で行く人だ。実際兄に魔力に勝てる者はいなかったから、たとえ国王がお忍びで壁外の娼館に行こうと、誰にも咎められなかったんだ」

 苦々しい表情に、当時のノクスの苦労が偲ばれた。

「それでカテナ様はルーメン先王に見初められて、パルマ王家に?」

「ああ。既に兄上には正妃がいて、側室も当時三人はいたか」

「それはそれは……」

 経済的な不安はなくなっても、その状況は割と地獄だな。


 ノクスは俺の考えを読んだように、

「何不自由なく従者に傅かれる生活であっても、それはカテナの望むものではなかった。城にいる間、彼女はいつも寂しそうに、壁外の街の方を見ていたのを覚えている。兄上は興味が薄れたからといって側室を邪険にすることはないが、なにせ多情な人だったからな……」

 彼自身も寂しそうな顔で、遠くを見つめていた。

「ノクス先生はカテナ様にお会いしたことがおありですの?」

「ああ、何度か。ディエスは顔と髪の色は父親そっくりだが、耳と左右の目は母親譲りだ。とにかく物静かで綺麗な人だった」

「……」

 ノクスがカテナを語る声には、恋愛というより親愛の情が滲んでいた。

 好意はあっても、カテナが兄の——しかも王の側室という立場だから、積極的に話しかけたりは出来なかったんだろうな……。

 そしてノクスは再び語り出した。




 カテナが男児——ディエスを産んでからも、彼女の周囲の状況が好転することはなかった。

 正妃との間に子はなく、ディエスは王太子として早々にカテナから引き離され、他の側室からの当たりも強くなった。

 カテナは城の端にある塔に居を移すことを申し出て、それが許されると彼女が城を出るまで、そこに住み続けた———



「ちょっとお待ちになってください」

 思わず俺はストップをかけた。

「城を出たって……カテナ様は今も生きていらっしゃるのですか?」

「いいや。それをこれから話す」


「……しかし、カテナ様があんな寂しい塔に住まうなんて、最初は酷い話だと思っていましたが、ディエス殿下にとっては、あれが唯一実の母親と過ごせた時間でしたな」

 レギオはやり切れないと首を振る。

 パルマ王城の端に位置する塔———確かにそんなものがあった気がする。

 フィリアの記憶を探ると、幼い彼女が塔を見上げる映像が頭の中に出てくる。

 そしてフィリアの隣にはディエス。彼も塔を見上げている。

 その口元には微かな笑みが浮かんでいる。

 幼い彼は知っていたのだ。塔の上に母親がいることを———


「ルーメン兄上の正妃は、カテナを虐げることはしなかった。しかしディエスがカテナと会うことも好まなかったから、城の中にいる間は二人は会うことが出来なかったんだ」

「……それがカテナ様が塔に移って会うことが出来たと?」

「塔は城から少し離れているから、正妃に見つからず会うことが可能だった。もちろん、カテナに好意的な従者や使用人の協力あってこそだがね」

 ノクスの言葉にうんうんとレギオが頷く。


「でも、息子との逢瀬もカテナの心を引き止めることは出来なかった。彼女は兄上に離縁を申し出て、それが受理され、壁外の街に戻って行った」

「娼館に戻ったってことですの!?」

「カテナは側室だったとは言え、王太子を産んだ身だからな。さすがにそこには戻れない。今の国王モーレス兄上が、当時ルーメン兄上の補佐をしていたんだが、モーレス兄上が出国に際して警護や他の従者、生活に困らないくらいの金を持たせたと聞いている。それを元手に孤児院を開いたとも———」

「……お優しい方だったんですね」

 フィリアの記憶の中にカテナの映像はない。

 ディエスと同じ耳と、左右色の違う目を持つ綺麗な女性——その情報が俺の中で彼女の全てだ。

 でも彼女を語るノクスやレギオの表情から、少しだけ人柄は窺い知れた。

 多分、幼いディエスも母親のことを慕っていたのだろう……。


「ルーメン兄上と正妃、側室が亡くなったのはカテナが城を出た後、ディエスが九歳の時だった。兄上は壁外に行くことはなくなったが、城下の娼館通いは止められず、そこで流行病に罹って……正妃たちも、おそらく兄上に移されて亡くなった。治癒魔法も効かないほど呆気なくな」

「あまり良い言い方ではありませんが、カテナ様は難を逃れたわけですわね」

「ああ、その時は。しかし、ルーメン兄上が亡くなったのが痛かった」

「?」

「その一年後、壁外の街に魔物の大群が押し寄せた」

「まさか、それって———」

「ああ、フィリア嬢。授業でも教えたことがあるだろう。それが『壁外の悲劇』だ」



 ———『壁外の悲劇』

 八年前、ネブラ王国難民の子孫の街が魔物に襲われ壊滅した。

 アルカ王国の騎士団が馳せ参じ、魔物を撃退した後の街の中には、生きた人間は誰一人いなかったそうだ。

 歴史として振り返るには、まだ生々しい傷が残る大惨事だ。

 その犠牲者の中に、ディエスの母親がいたということか———



「ルーメン兄上が生きていたら、少しは結果が違っていたかもしれない。当時幼いディエスの代わりに王位に就いたばかりのモーレス兄上は、正直魔力が先王に劣る。ルーメン兄上は性格に難はあるが、誰よりも強かったからな。ディエスもまだ幼い上に、あれが初めての魔物討伐だったから……」

「ディエス殿下が現場にいたのですか!?」

 俺の声が非難めいて聞こえたのか、レギオが慌てて付け加えた。

「魔物の群勢は類を見ない規模で、ルーメン先王陛下に匹敵する魔力保持者はディエス殿下しかおられなかったのです。私も殿下と一緒にその場にいましたが、それは恐ろしい程の魔物の数で、下手をすれば私たちも死んでいました……」


 ここで一つ、疑問が湧いた。

 王都の騎士団が動いて街の住民を救出したのなら、住民が皆殺しというのはおかしくないか?

 王都=王の直属の騎士団だ。それこそ団員は選りすぐりの精鋭に違いない。

 壁外の街の住民にしたって、要はネブラ王国民の子孫だ。

 アルカ王国では『混ざり者』と称されて忌避される人のものではない耳や角は、魔力が強い証でもある。

 騎士団と彼らが力を合わせて魔物に立ち向かえば、住民が全滅する事態にはならないだろう。

 ということは、まさか———


「アルカ王国の騎士団は、壁外の街の住民を見捨てたんですの……?」


 二人から否定の言葉はなかった。

「………苦渋の決断で、モーレス兄上——現国王が、街と王都を繋ぐ唯一の門を閉めた。そうでもしないと、王都は守れなかった……」

「我々の力が及ばなかったせいで、カテナ様は———」

 惨劇の傷跡は、未だ彼らの心に重くのし掛かっている。

 国民と他国の民と、命の選別をせざるを得なかった国王を責める権利は俺にはない。


 でも問題はディエスだ。

 将来は王として国を背負っていく責務があるとしても、この運命は酷過ぎないか!?

 八年前なら彼はまだ十歳だ。

 まだまだ親に甘えたり、我儘言って困らせても許される年齢だ。

 そんな子どもが、最悪の形で母親の死に直面させられるって———あり得ないだろう!!


 やるせない気持ちのまま、明日ディエスに乗馬を教わることを思い出し、俺は頭を抱えたくなった。

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