第12話 闇堕ち!? ノクス先生

 それからまた日々は過ぎた。

 その間、二度ほどラティオ先生が学園に来て授業を行った。

 二度目の授業は調理実習、三度目は掃除と洗濯ときて、いよいよコレは治癒魔法ではなく、家庭科の授業なのではと疑い始めた頃、突然彼女は宣言した。


「今日は実際に治癒魔法を使ってみま〜す❤︎ ハイ! 今回の患者さんは〜、草刈り中に誤って鎌で腕をザックリやっちゃった農夫のウィルさんで〜す」

「ううっ、何でもいいから、早く手当てしてくれよ!」

 日に焼けたウィルさんの肌に、白い包帯がぐるぐる巻きにされている。

 赤い血がジワジワと染まっていく様子から、傷は大きくて深そうだ。


「この方の傷を、私が!?」

 調理実習や掃除の合間に、口頭で治癒魔法の手順は習ったが、実際ここまでの出血を止めるのは初めてだ。本当に俺に出来るのか。


 そんな俺の不安を、当然ラティオは見越していた。

「大丈夫だよ〜、フィリアちゃん。最初のうちは失敗してもともとなんだから、気楽に全力でやっちゃって〜」

 教室の隅で様子を見守っているノクス先生とコスタの方を向くと、大きく頷いてくれた。

 そうだ、そのために俺は今まで学んできたんだ。

 よし! 俺はやれる!

「うまく出来ないかもしれないけど、頑張りますわ!」

「失敗は嫌だよ。ちゃんと治してくれよ〜」

 ウィルさんのもっともな嘆きは、俺のため、治癒魔法の未来のために少しだけ黙殺させていただいた。


「やりますわよ!」

 俺はウィルさんの前に仁王立ちし、ビシッと気合を入れる。

 手順は頭に入っている。イメージするんだ。

 血管を繋ぎ、血液を流し、肉と皮膚を元通りにする過程を。

 俺は慎重に患部に狙いを定め、魔具の杖に魔力を注いだ。

 全力で———




「はっ!」

 気がつくと、何故か天井が見えた。視界が反転している。

 これはいったいどういうことだ。

 俺は治癒魔法を全力で発動させて、それから———


「ウィルさんは!?」


 俺のことより患者さんのことだ!

 あれからどうなった!?


「あ、気がつかれました? フィリア様」

 コスタが心配そうに覗き込んできた。

「コスタ、ウィルさんは? 私の治癒魔法は成功しましたの!?」

「それが、その……」

 起き上がって対峙すれば、顔を逸らされた。

 最悪の展開が胸をよぎる。


「私がついてるもん、大丈夫だよ〜、フィリアちゃん。ちゃーんと私が治癒して、今お帰りいただいたから〜」

 いつものゆるい声が聞こえて、俺の不安は解消された。

 そうだ国内一の治癒魔法使いがついてるもんな。でも先生がフォローしたってことは……。


「うん、フィリアちゃん力み過ぎて、相手の血管詰まらせてた」

「全然ダメじゃないですの、私!!」


「いや、問題はあったが、同時に改善点も見つかった」

 慰めるでもなく、平坦な声でノクスが言った。

「ノクス先生……」

「そうそう、もうちょっと力を抜いたら、フィリアちゃんの魔力でも患部一箇所だけじゃなくて、数箇所は治癒できるよ〜❤︎」

「本当、ですの?」

「魔物による創傷は普通一つだけではないからな。そちらの方が有難い」

 先生たちの言葉に、嘘やおべっかはない。

 良かった。

 魔力の弱さによる上限はあるだろうけど、今はダメでもこれから出来ると言うことだ。それなら頑張り甲斐もある!



 ———そんなこんなで俺の先生たちへの信頼度も上がり、ノクス原因の破滅フラグも忘れかけた頃、事件は起こった。


 この学園には教室の隣りに前世同様、準備室というものがあった。

 王侯貴族は、前世で習うべき学校教育のようなものを、通常は学園に来る前に家庭教師から教わっている。

 だから今更算数で使うような大きい定規は必要ないが、稀に大きな地図や、今となっては稀少な魔石の標本等が授業に使われ、それらが準備室に収納されている。


 その日はコスタが従者の仕事で欠席し、必然的にノクスと二人きりの授業だった。

「フィリア嬢、悪いがこれを片付けておいてくれ」

 魔法の歴史の授業で使ったため、教壇の上には本が山積みになっていた。

 本は学園内の図書室と、隣りの準備室から持ち込まれた物だ。

 ノクスが俺に戻すよう頼んだのは準備室の本で、彼は蔵書を返しに図書室へ行った。


 普段授業でこういう準備や片付けが必要となると、御令嬢である俺にやらせられないと、コスタが率先してやっていた。

 だから準備室に入るのは、これが初めてだった。


「失礼します…わ」


 誰もいないはずだが、何となく声をかけてしまう。

 初めて足を踏み入れた空間は、思っていたより広く、物が多かった。

 棚に収まり切らず、本が床にまで積まれているし、用途が分からない魔具もそこらじゅうに置かれていた。

 そして前世の理科室を彷彿とさせる、おそらく魔物と思われる標本の数々……。

 永遠に動くことはないとはいえ、光を失った眼球にギョロリと見下ろされるのは、いい気分じゃない。


 早く本を元の場所に戻したいのだが、

「これ、どこにあったんですの……?」

 この世界に日本十進分類法などない。

 そもそもこの散らかり様だ。適当に置いといていいのか?


 俺が思案に暮れていると、部屋の隅でカタリとわずかな物音がした。

「!?」

 部屋の中には俺しかいない……はずだが。

 恐る恐る物音がした方を見て、俺は驚いた。

「ドア?」

 入った時には気付かなかったが、奥にひっそりとドアが存在していた。

 準備室は二部屋あるということか?

 物音は微かだが、その中から聞こえてくる。

 ちょっとの怖気より、好奇心が勝って、俺はドアを開けた。


「わ……」


 そこは確かに二つ目の準備室だった。

 本の量は一室目より少なくて、理科室でよく見たビーカーや試験管のような物と、よく分からない魔具が机の上に置かれ、準備室というよりも実験室のようだった。


「ピーッ!」

「!?」


 物音ではなく、間違えようもなく鳴き声だった。

 布で覆われた鳥籠の中で、そいつは鳴いていた。

 突かれないように離れた所から手を伸ばし、俺は布をそうっと捲ってみた。


「——!!」


 思わず布を取り落とす。鳴いていたのは鳥ではなかった。

 拳大くらいの一つだけの眼球に、その身体にくっついた白い片方だけの翼。

 どう見たってそれは———


「騒ぐな」


 突然、背後から拘束されて口を塞がれた。


「んんーっ!!」

「大声を出すとコイツがびっくりする。頼む、フィリア嬢」


 仕方なく頷くと、口を覆っていた手が離れ、拘束も解かれた。

「驚かせてすまない。コイツが他人に見つかる訳にはいかないのでな」

「ノクス先生、それって……」

「ああ、魔物だ」


 やっぱり。

 しかしノクスは恐れることなく鳥籠に近付くと、扉を開けて手ずから餌を与えた。

「コイツは果物や野菜しか食わないんだ」

「いつからここに……?」

「もう三ヶ月ほど前になるか……魔物の生態をもっと良く観察させて貰うために、魔物討伐の騎士団に同行したんだ。私も君程ではないが、仮にも王族のくせに魔力は弱いからな。教師という職もそうだが、私は学問でしか人の役に立てない……」

 自嘲しつつ彼は話し続けた。

「その帰りにコイツの、魔物の卵を拾った」

「魔物は卵から生まれますの? ノーティオの結界の網をくぐれた魔物たちが、魔界からこちらの世界に来ているものとばかり……」

「定説ではそうだ。しかし、そもそも我々は魔物の生態について知らない事が多過ぎる。魔物がどのように生まれ、何を食べるのか、それすらもだ」


 魔物に対しての処置は『見つけ次第殺す』しかなかった、今までは。

 お互いに遭遇したら最後、どちらかが死ぬしかないからだ。

 魔物に抵抗する術を持たない民が大半のこの国で、それは仕方がない。


 人に対して非友好的な魔物の研究は、どうしても生体ではなく死体になってしまう。

 魔物は人を殺し、時には食べる事もあるが、絶対ではない。

 何のために魔物はこの世界に侵攻し、人々を無為に殺すのか、その理由さえ分からない。


「この子は……」

「『エポカ』だ。魔物の生態研究の為に生かしている」

 あー、三ヶ月もお世話してたら情がわくか……。

「そんな顔をするな。君が言いたいことは分かっている」

「エポカの存在を知っているのは?」

「今のところ、私と君しかいない」

「分かりました。私は見なかったことにしますわ」

「え!?」

 早過ぎる俺の物分かりの良さに、ノクスが驚愕した。


「良いのか? 魔物なんだぞ」

「先生はある程度の覚悟も決めていらっしゃるんでしょう? エポカが人に危害を加えた場合の」

「ああ、その時は私の手で——」

「それなら私は何も申しません」

「フィリア嬢……」

「ピーッ」

 心なしか嬉しそうな声で、エポカが鳴いた。

 俺の申し出は、何もノクスの気持ちを慮っての事ではない。

 はっきり言ってしまえば打算だ。

 ゲーム『ソラトキ』の、ノクスによるフィリア破滅ルートを、俺は徹底的に潰しておきたいんだ。


 ゲームの中でヒロインひいてはアルカ王国に、ノクスが牙を剥いた理由は「魔力偏重の世界に対する反逆」という、実にザックリした物だった。

 しかし現実のノクス先生はというと、先程のように王族なのに魔力が弱いことを気にはしているが、国家転覆を目論む程に拗らせてはいない。


 ノクスは泣く子も黙る容姿に反して、優し過ぎるのだ。

 危険な行為をした時こそ、烈火の如く怒るけど、俺たち生徒には普段声を荒げる事もないし、今回の魔物だって、生態研究と言いつつも結局今まで殺せなかったのだろう。


 そんな優しい先生を闇堕ちさせてはいけない。

 いや、これは俺——フィリアの為でもある!


「よろしくて? ノクス先生。この私が黙っていてあげるのですから、今日のように部屋の鍵をかけ忘れるなど言語道断、あってはならない大失態ですわ!」

「む……、君の言う通りだ。肝に銘じよう」

「分かればよろしいのですわ。さあ、私にもエポカの餌やりをやらせてくださいませ」

「ピー?」

 目玉の球体に片翼という奇抜なフォルムはまさしく魔物だが、先生が可愛いがる様子を見てたら、俺も少し慣れてきた。

「私はフィリア・メンブルム。これからよろしくお願いしますわ」

「ピーッ!」

 エポカは人の言葉が分かるのか、同意するように今日一番高い声で鳴いた。



 ———ノクス先生とエポカという秘密を共有して十日目、蜜月は呆気なく終わりを迎える。


「フィリア嬢、エポカがいない!」

 登校して早々、ノクスに首根っこを掴まれ、俺は引きずられるように準備室に連れ込まれた。

「鳥籠の鍵は!? 準備室には施錠をしろとあれ程——」

「見たまえ」

 俺の叱責を、彼は一言で黙らせた。

 ノクスの視線の先——鳥籠は、切り取られたように四角くポッカリと穴が開いていた。

 準備室のドアも見ると、同じような形に切り取られている。


「誰がこんな事を!?」

「エポカ自身だ。あいつの羽根は自在に硬度を変えられる。私が準備室の外の世界の話をしたばっかりに——」

 やはりエポカは知能が高い。今は感心している場合じゃないが。

「反省は後ですわ、先生! 早くエポカを」


「キャーッ!! 魔物よ、魔物がいるわ!!」


 窓の外から女子生徒の悲鳴が聞こえた。

 既に他の生徒に見つかってしまったらしい。

 最悪の展開だ。

 俺たちがエポカを先に確保しないと、アイツの命が危ない。


「ノクス先生、行きますわよ!」

「ああ!」

 いつも以上に顔色の悪いノクスを促して、俺たちは外に飛び出した。



「いたぞ、あそこだ! 回り込め!」

「私が魔具の弓矢で翼を狙うわ!」

「いいや、俺が炎に包んで焼き殺す!」

 事態は切迫していた。

 生徒たちが逃げたエポカ相手に魔力を発動し、襲い掛かろうとしていた。


「ピーッ!!」

 悲しげな声で飛び回るエポカ。


「これ、どういう事態!? B——じゃなかった、フィリア様!」

 ちょうど登校してきたササP——今は人目があるから『クレア』呼びで——に俺は捕まった。

「ノクス先生が、こっそり飼っていた魔物が逃げ出しましたの。クレアさん、何とかしてくださいませ!」

 クレアにだけ聞こえる声で耳打ちする。

「何とかって、私、破壊するのは得意だけど確保するのはなー」

「そこを何とか! もし捕まえてくださったら、先日仰っていた『パジャマパーティー、一緒に入浴付き❤︎』の件、考えない事もありませんわ!」

「ヨシキタ! 言質とったからね! 絶対だよ!」


「エポカ、こっちだ!」

 魔物を飼っていた責を負う覚悟が決まったのか、ノクスがなりふり構わず叫んでいる。

「ピーッ!」

 エポカが愛しい飼い主に気付き、近寄ろうとしたその時———


「巻き込まれるから止まって、ノクス先生」


 声がノクスの歩みを制した。

 次の瞬間、エポカが見えない力で地面に叩き付けられる。


「ピーッ!!」


 痛々しい悲鳴が、辺りに響き渡った。

「ヤバい、あの人来ちゃったよ……」

 クレアが思いっきり顔を顰めた。


「シルワ……先生」

「コイツはノクス先生が飼われていたんですか? 魔物ですよね?」

 怒声ではない、いつもの捉え所のない声音だった。

 それでも、周囲からざわめきが消えた。


 平民にして国内一の実力者——それがシルワ先生。


「ピ……ピピッ……」


 弱々しくエポカが鳴いた。

 シルワの魔力は、対象の重力を自在に操れる力だ。

 今、エポカの身にはどれだけの荷重がかかっているのか。

 それは計り知れないが、このままではエポカの命が尽きる事だけは確かだ。


「シルワ先生! ノクス先生は魔物の生態研究の為に、この魔物——エポカを飼っていたのですわ! この子の主食はお野菜と果物で、卵から生まれてこれまで、人間に害をなしたことは一度もありません! 家名に懸けて、私、フィリア・メンブルムが保証しますわ!」

 俺はシルワにしがみつき、一気呵成に畳み掛けた。


 ここでやっとシルワが俺の存在に気がつき、視線を下げた。

 普段のほほんとしたイケメンなだけに、表情を失くした今の相貌は、日常との落差で恐怖さえ感じる。

「ああ、君がメンブルム家の御令嬢か」

「私の担任はノクス先生なので、シルワ先生は、ほぼお初ですわね。以後お見知りおきを」

「こちらこそ。それで、フィリア嬢が僕に何の用かな?」

「はっきり言いますわ。エポカを殺さないでくださいまし」

「何故? これは魔物だ。殺さなくてはこちらが殺されるよ」

 シルワの周囲を取り囲む生徒たちも、彼の言葉に大きく頷く。


「まだこの子は人を殺してはおりませんわ。ねっ、ノクス先生」

「そうだ、シルワ……先生! まだ研究途中なんだ。もしエポカのように人間に慣れ、親しみを感じる個体が増えるのなら、魔物との争いは避けられる!」

「気の長い話ですね。魔物との共生までに何人の血が流されるのかな。ノクス先生——いや、ノクス。僕は君と長い付き合いだから、君の性格は良く知っているよ。もし、この魔物に襲われる事があっても、君はコイツに手をかける事は出来ないだろう。だったら、今ここで僕が一思いに殺してしまった方が」

「絶対、ぜーっったい! 駄目ですわっ!!!」

「フ、フィリア嬢……?」

 俺の剣幕に、シルワどころかノクスもちょっと引いた。


 だってここでエポカを殺されたノクス先生が、心を病んで闇堕ちしちゃうかもしれないじゃないか!

『ノクスの闇堕ち=フィリアの破滅フラグ』ではないかもしれないが、不安の芽は徹底的に摘むぞ、俺は!


 やれやれと、シルワが嘆息する。

「聞き分けのないお嬢様だな。この魔物を放っておけば、君の大事なノクス先生に危害を加えられるかもしれないんだよ?」

「危機管理はこれから徹底していきますわ!」

「現に逃げられているじゃないか」

「今日はたまたまですの! 今後、鳥籠の強度を上げて、しつけもちゃんとノクス先生がなさいます!」

「ピー……」

 圧迫されて苦しいだろうに、健気にエポカも俺の援護をしてくれる。


「無理だ」

 口調はあくまでも柔らかいが、シルワに取り付く島はない。

 気は進まないが最後の手段を取らせてもらおう。

 最弱でも俺は悪役令嬢だ!


 しがみついていた手に力を込める。

「いい加減に離してくれないかな、フィリア嬢。良い子だから」

 苦笑しつつシルワが俺の身体に手をかける。

 ———今だ!!


「い、嫌ああああああっっ!!」

 俺はあらん限りの声で叫び、今度は逆にシルワを突き飛ばした。


「なっ!?」

 びっくりしている彼を尻目に、俺は俯き、力を込めて目を見開いた。

 よし! 出た!

 次にゆっくりと顔を上げ、


「今、シルワ先生に、お尻を撫でられましたわ……!」


 涙目でオーディエンスに向かって告発する。


「いや、触ってないよ!? 僕は!」

 当然、シルワは慌てて自分の無実を主張した。

 それもそのはず。俺の言葉は真っ赤な嘘だから。

 しかし、純真な生徒たちは俺の言葉に騒めき出す。


「シルワ先生がそんな事するなんて、嘘ですわ!」

「そうよ、フィリア様の勘違いに決まってるわ!」

 好感度の低いフィリアの言葉を、即座に否定する令嬢たち。


「そうだな、手が当たっただけとか……だいたい、フィリア嬢はシルワ先生の守備範囲外だろ? 前付き合ってた恋人は、豊満な美女だって話だし」

「いーや、ああいう女ったらしが食い飽きて、次はまったく違う手合いに行くんだって。それにフィリア嬢は全然守備範囲内だろ。いろんな箇所が小さくて可愛くて、意地悪したら涙目でプリプリ怒りそうなところとかさ」

 令息たちの意見は様々だが、後者のお前はフィリアにとって危険人物と認定したぞ。


 ただその場の総意として、シルワの日頃の行いや人徳から「疑わしいけど、あの人ならやりかねない」空気に傾倒している。

 故意の痴漢冤罪は俺も駄目だと思うが、エポカの公開処刑を阻止する為、悪いがシルワ先生には泥を被ってもらう。

 この混乱に乗じてエポカを救出し、その処遇に関しては後日改めて———


「何があったんですか? 叔父上——いや、ノクス先生」


 俺の目論見は、凛とした良く通る声に阻止された。

「ディエス殿下!?」

 時刻はまだ授業前の登校時間。彼がここを通る可能性は多分にあった。


「わっ! ノクス先生、それ魔物じゃありませんか!?」

 ディエスの後ろに控えていたコスタが、目敏くエポカを見つける。

 彼にも事情を話して、こちら側に引き入れておくべきだったと今更後悔した。


 シルワが一歩前に出て、ディエスに優雅に礼をする。

「おはようございます、殿下。いやー、実はノクス先生が研究と称して、こっそり魔物を飼っていたのが逃げ出して、これから僕が退治するところです」

「そして私はシルワ先生にお尻を触られましたわ」

「フィリア嬢、しれっと虚偽の情報を入れない!」

「えーと……、ノクス先生が魔物を飼って逃げ出して、フィリア様がシルワ先生にお尻を触られたって事ですか???」

 コスタは俺の追加発言に混乱しているようだ。


 ディエスはシルワの言葉を聞いているのかいないのか、いつもの無表情で彼の前を横切り、ノクスの正面に立った。

 俺が起こした騒動で、シルワの拘束から解かれたエポカが、ノクスの腕の中で震えている。


「ディエス……」

「ピー……」

 ノクスが力無くディエスを見つめる。

 この場を収める裁量は、シルワからディエスに移った事は明白だった。

 彼の次の一言で、エポカの運命が決まる。


「殿下。ノクス先生は確かに魔物——エポカをこっそり飼っていました。でもそれは魔物の生態研究の為、先生に飼われたエポカも、人に危害は加えませんわ!」


 俺は思わず手を広げ、ディエスの前に立ち塞がっていた。

 彼の赤と青の瞳が、静かに俺を射る。

「それでも、もしその魔物が人に危害を加えようとしたら?」

「私が止めますわ! だから殿下、ノクス先生とエポカを許してあげてくださいませ……」


 ディエスは「そうか」と一言だけ呟いて、俺から視線を外した。

 ……俺は、彼の説得に失敗したのか……?


「ノクス先生」

「!」

 次に声をかけられ、ノクスの身体が強張るのが傍目からも分かった。

「その魔物——エポカがフィリアに手をかける前に、あなたは彼女を守れますか?」

「——命に変えて!」

 ノクスがディエスに跪き、恭しく宣誓した。

「……分かりました。私からは以上です、先生——叔父上」

 彼は俺を一瞥した後、何事もなかったかのようにコスタを伴い去っていった。

 許されたのか……アレで……。


 呆気ない幕切だった。

 ディエス殿下の一言で場が収まったのを理解した生徒たちも、ポツポツとそれぞれの場所に戻っていった。


「フィリア嬢、ありがとう。君のお陰でエポカの命が救われた。本当に感謝している」

「ピーッ!」

 ノクスが深々と俺に頭を下げた。

 いやいや、この十日間でエポカに情が移っている事は間違いないが、本当の俺の目的はあくまで破滅フラグ回避だ。そこまで感謝されると良心が咎める。

「お礼なんて必要ありませんわ。それよりエポカの身体は大丈夫ですの? 可哀想に、シルワ先生に痛めつけられて……」

「心配ないよ。手加減してたんだから」

「ひっ!?」

 背後にシルワ本人がいた。


「どうやらそのようだな。シルワ先生……シルワが本気になったら、最初の一撃でエポカは圧死している」

「ピーッ」

 エポカの身体を撫でて確認しつつ、ノクスが言った。

「もともと殺すつもりはなかったよ。そんな事したら、ノクスに一生恨まれる。ただ、ああやって言っとかないと、生徒たちに示しがつかないからね」

「シルワもすまなかった。嫌な役回りをさせたな」

「本当だよ。フィリア嬢には汚名を着せられるし」

 ギクゥッ!

「そ、その節はシルワ先生には大変なご迷惑を……」

 確かに俺が悪かったよ!

 でも、そうでもしなきゃ、エポカが先生に殺されると思ったんだよ!


「本当に君は悪い子だ」

「ふぇっ!?」


 不意に、シルワの手が俺の腰に伸びて、抱き寄せられた。

 近い、近い! 顔が近いって!


「女ったらしは事実だけど、痴漢だと思われるのは心外だな」

「ご、ごめんなさい、ですわっ!」

 背中からお尻までの微妙なラインを撫でられながら、耳元で美声が囁く。

 ゾワゾワするから、本気でやめろ!

 俺の反応に気を良くしたのか、シルワはニンマリと笑い、さらに顔を近づけた。


「今度ああいう嘘吐いたら、それ、実行しちゃうよ?」

「ヒーッッ!!」


 シュッ!!


 耳元で空気を斬るような音がした。

 目の前にあったシルワの顔がフッと離れ、何故か彼と俺の間に、棘つきナックルを装着した拳が突き出していた。

 固く握られていた拳が開き、潰れた小さな虫が掌からひらりと落ちた。


「失礼。シルワ先生のお顔に、蚊が止まりそうだったので」

「クレアさん!」


 クレアはニッコリ笑うと、サッと俺と先生の間に入った。

 シルワと距離が出来たことにホッとするけど、なんでクレアが戦闘モードになってるんだ?


「ありがとう、クレア嬢。おっと、もうこんな時間だ。二人とも授業に遅れないようにね。『ノクス先生』もですよ」

「ああ、そうだな。『シルワ先生』」


 ———こうして魔物の子、エポカに関する騒動は収束し、破滅フラグをなんとか回避したのだった……。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る