借りなきゃよかった
奏羽
第1話
暗い部屋の中、キーボードを打つ音が数分間続き、暫くしてカチカチとマウスが鳴ったと思ったら、またキーボードを打つ音が聞こえる。
「へへっ、駄目だ。終わんね」
突如として笑い声を発したと思ったら、すぐさま世界滅亡の一分前と錯覚してしまうような、絶望に満ち溢れた声がパソコンの前に座る青年の口から零れ出る。
青年の名は
「いや、無理無理!時間が足りるわけない!意味がわからん!」
先ほどから、彼は部屋に一人でいるにもかかわらず、延々と言葉を発し続けている。これは一種の現実逃避であることは誰の目から見ても明確である。
「そもそも提出期限が短すぎなくないか…?もっと余裕を持たしてくれてもいいじゃないか」
明らかな責任転嫁に、自分でも無理があるとわかったのか、新太は頭を掻き毟る。
「あぁ!違う!俺が遊んでただけだぁ!わかってる。わかってるから誰でもいいから助けてくれ!」
「あ、あのぉ、ちょっといいですか」
机に突っ伏す新太に困惑と不安が入り混じった声色の声がかけられた。新太は、その声に返答することなく机に頭をこすり付けたままである。
「あ、あの!すみません」
「ふふっ徹夜のしすぎで幻聴までもが…」
「いや、その、幻聴ではなくて…」
新太がゆっくりと顔を上げ、声のする背後へと振り返る。
「あっ!やっと向いてくれた」
新太の目の前には、奇抜な猫のコスプレをした女が立っていた。黒髪に猫耳、今どきはあまり見かけない立派な着物に、手足には猫の手足を模した大きな肉球といったように、コスプレをしているにしてもコンセプトがイマイチハッキリしていないように見える姿の女であった。
「ど、どちら様でしょうか?」
予想もしなかった謎の人物に、新太は引き攣った顔で問いかける。
「貴方が二年前にお供え物を置いていった祠の神です」
「え、いや、え?」
「ほら、美味しい缶詰のお供え物を置いていってくれたじゃないですか」
二年前、新太は成人したばっかりの時に、一日の終わりに酒をよく飲んでいた。それは一日でもはやくアルコールに慣れたかったためである。
そんなある日、おつまみにとコンビニで買った缶詰が猫缶であったことに、帰り道で気付いた新太は、家の近くにある野良猫が集まる祠に置いて帰ったことがあった。
そんなことをうっすらと思い出した新太は改めて神と名乗る女を見た。
改めて見ても、やはり胡散臭い恰好であることに変わりはなく、新太の表情から疑念が消えることはなかった。
「そ、それで、その神様がどういったご用件で?」
そう訊かれた神と名乗る女は、待ってましたと言わんばかりに鼻息をフンスと吐き出し、大きく胸を張って答える。
「貴方の悲愴に満ち溢れた心の声を聞いてやってきたのですよ」
「というと?」
「今どきお供え物をする若者なんて珍しいですからね。あの時、私はとても感動しました!そこで、神である私が貴方のお願いを一つ叶えてあげようとここに出向いたわけです」
今まで、半信半疑で話を聞き、何なら不審者として警察に通報しようかと考えていた新太であったが、女の話を聞いて、現状を打破するチャンスかもしれないとスマホに伸ばしかかっていた手を引っ込めた。
「願いを叶えてくれるって本当!?」
「えぇ、勿論。私は神ですよ」
少々くどい女の神アピールに若干イラつきを見せる新太であったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「なら卒論を終わらせる時間をください!」
「あっ」
土下座をしそうな勢いで願いを言う新太に、女は淡々と答える。
「猫が関係するお願いにしてください」
「は?え?」
「ほら例えば〝野良猫に好かれやすくなる〟とか、〝いつでも近所の野良猫がやってきて癒してくれる〟とか、そういうのを…」
そこまで聞くと、新太はその場で崩れ落ちた。
「はぁ…期待した俺が馬鹿だったよ。もう出ていってくれよ…」
「えぇ!?」
新太の態度の変貌ぶりに、女は驚きを隠せない様子だ。
「なんでですか!?猫は可愛いし、癒されるということで疲れ切った貴方の心にも、きっといい助けになりますよ!」
「いや、いい…そういうのいいから帰ってくれ…」
神であるとさんざん豪語していた癖に、叶えられる願いの範囲があまりにも小さいことに新太は露骨に萎えていた。
「じ、じゃあ本当に帰っちゃいますよ?いいんですか?滅多にありませんよ」
薄暗い部屋の中では、両者が互いに想像もしなかった展開に、失望と困惑が入り混じる最悪な空間が出来上がってしまった。
「いいよ、いいよ。ったく…猫の手もを借りたい時に邪魔しやがって」
「え?」
「あ?なんだよ、はやく帰れよ」
「今なんと?」
「だから、猫の手も借りたいって言ってんのに邪魔すんなって言ってんの!」
「それです!それが貴方の願いですね!なんだ、あるんじゃないんですか!」
「え、そういう抜け道的なお願いアリなの?」
「アリも何も立派なお願いじゃないですか。全く、正直者じゃないんですからぁ、もう」
女はとびきりの笑顔でうんうんと頷くと、すぐに神妙な面持ちになって、新太を見つめる。
「いいですか、期限は一週間です。一週間の間は猫の手を貸しますから、是非有効活用してくださいね」
「一週間もいいのか!?人手が増えれば卒論も間に合いそうだ!助かる」
「それじゃ、また一週間後に会いましょう」
女はそう言うと女神らしい優しい微笑みで静かに消えていった。
暫くして、新太は自室の椅子の上で目を覚ます。
「やべっ、寝てたのか」
パソコンの右下に表示されている時間は記憶にある時刻よりも数時間進んでいた。
「そりゃあ夢だよな」
ついさっきまでの突拍子もない夢の内容に「へへっ」と新太は照れ笑いをしてしまう。
「なーに、今からならまだ一生懸命やれば間に合うさ」
パソコンの画面にはこの数日で、悪あがきと言わんばかりに書き続けた論文が表示されていた。
新太の顔は数時間寝たおかげか、それともくだらない夢を見ていたためか、数時間前よりは落ち着いた顔をしている。
「さーて、続き続き」
新太は作業を再開しようとキーボードに手を置いた。ガシャンと大きな音が立つと同時に、机が揺れる。
そして、画面に表示されていた卒論が跡形もなく消え去った。
「えっ?」
理解の追い付かない怒涛の現象に、新太はキーボードに置いたはずの手を見る。
そこにはふさふさの毛を纏った、可愛らしい大きな猫の手が付いていた。
借りなきゃよかった 奏羽 @soubane
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