第36話

そう言えば、汐音はいつもと変わらない。

あんなことをした後なのでもう少し意識するものだろうと思ったがそういう様子をちらりとも見せていない。

昨日の出来事が本当に夢だったんじゃないかと思えるほどに。

汐音がいつも昨日のような甘えん坊モードになると悠希としてもどう対応していいのか分からないので、こちらの方が正直助かるが。


「矢城君、料理できたわよ」

「分かった」


汐音の声に返事をしてダイニングテーブルの方に向かうと既に汐音の作った料理が配膳されていた。


「配膳くらいよんでくれればやったぞ」

「今日は簡単なものだしこれくらいはやろうと思っただけよ」

「まあ、俺としては助かるが」


そう言っていつもの席に腰を落ち着けると悠希は少し違和感を感じた。


何かいつもと違うなと思うくらいの些細な違和感。

しばらく、考えて悠希はようやくその違和感に気づいた。

いつもなら悠希の対角に座る汐音が悠希の正面に座っている。


「柏木、そこに座ることにしたのか?」

「ええ、何か問題でも?」

「いや、別に問題はないが」


これと言って問題はないのだが、汐音の整った美貌が目の前にあると食事をとるのにも緊張してしまう。

それにしてもどういう心境の変化なんだろうか。

突然、食事をとる席を正面に移動してきた汐音に内心、首を傾げる。

思い当たる理由としてはやはり昨日の出来事だろう。

昨日、汐音に寄り添ったことで、少しだけ心を開いて距離を縮めてきた。

そんなところだろうか。


汐音の方をまじまじと見ていると、悠希の視線に気づいたのか、汐音と目が合った。


「矢城君、何かしら」


凛とした黒の瞳に吸い込まれそうになりながらも、汐音の瞳をじっと見つめる。

やはりいつもとそう変わらないような。

そう思って汐音と目を合わせ続けていると、不意に汐音が気恥ずかしくなったのか身じろいだ。

瞳も左右に彷徨わせてどこか落ち着かないそんな様子だ。


「柏木……?」

「その、ずっと見続けられると恥ずかしいのだけど……」


頬をわずかに赤らめた汐音に上目遣いで見上げられる形になって今度は悠希が顔を赤らめた。


昨日、汐音を腕に抱きしめる前に見たのと同じくらいの破壊力を含んだ汐音の表情にたまらず、悠希は視線を逸らした。


「わ、悪い……早く食事にしよう、このままじゃ折角の料理が冷めちゃうしな」


汐音に見惚れていたのを誤魔化すように早口で言って悠希は一足先に汐音の手料理に手を付け始めた。


今日の夕食のメインはハンバーグらしい。

形よく整えられて程よく焦げ目のついたハンバーグに汐音お手製のデミグラスソースがかけられている。

ごはん、味噌汁、それにサラダまでついていて、文句のつけようがない。


早速、メインとなるハンバーグにフォークで切れ込みを入れると、肉汁が溢れ出し芳香な肉の香りが鼻いっぱいに広がる。

一口分切り分けて口に運ぶと、口に入れた瞬間、肉の肉汁と玉ねぎの甘みが絶妙に混じりあった味が口内に広がり、幸せな気分が広がる。

余りの美味しさに夢中で食べていると、気づけば汐音が作った料理を完食していた。

ほっと一息吐いて「めっちゃ、美味かった」と汐音に料理の感想を伝えると、心ここにあらずと言った様子でぼーっとこちらを見ていた汐音が瞳を瞬かせるのが見えた。


「柏木……?」

「……何かしら」


悠希が再び話しかけると悠希が見つめていることに気づいたのか、少し視線を逸らした汐音から返事が返ってくる。


「いや、今日も料理、美味かった」

「そう、それならよかったわ」


感想をもう一度伝えるといつものように耳をほんのり赤らめた汐音が素っ気なく呟いた。

ただ、いつもと違って悠希の目を直視できないとでも言いたげに視線が左右をうろついていたのが少し気になったが。

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