第32話

「矢城君、早速、頼ってもいいかしら」

遠慮がちに紡がれた汐音の言葉に「いいぞ」と素早く返答する。

何を頼まれるのかは分からないが汐音の言うことならできるだけかなえてやりたい。

そう思って汐音の言葉を待つ。


何を言うか迷ったように口を開けたり閉めたりした後、汐音の口から吐露された言葉はささやかな願いだった。

ついでにとんでもない破壊力を含んでいたが。

「その……ぎゅっとしてくれないかしら」

腕を広げて上目遣いでこちらを見て可愛らしいお願いをしてくる汐音に悠希は頭がくらくらするのを感じた。


なんというかやはり、しおらしい態度の汐音には弱い。

ある程度、壁を作っていても気づいたら汐音の弱弱しい態度にいつの間にか壁が取り除かれている。

汐音はもしかしたら甘え上手なのかもしれない。


幼さを含んだような汐音の可憐な表情に見惚れていると、シュンと気落ちしたように瞳を伏せた。

「やっぱり、ダメ?……」

表情だけでなく、言葉も少し幼くなっている汐音がいじけたように上げた腕を下げようとするのを悠希は慌てて止めた。

「だめじゃない」

乾いたような言葉が自然と口から洩れた。

きっと汐音の雰囲気にあてられたのだろう。


悠希の言葉に汐音がパッと表情を明るくした。

「ほんとに!」

心なしか声が弾んでいるようにも聞こえる。


数秒、お互い無言の時間が続いて。

「本当にいいんだな」

そう言って悠希が汐音を抱きしめようと腕を広げたところで、自分が言った言葉を振り返って恥ずかしさが溢れてきたのか、汐音が発言を取り消そうと口を開いた。

「や、やっぱり……」


汐音の言葉を最後まで聞く前に悠希は汐音の力を込めたら折れてしまいそうな華奢な身体を優しく包み込んだ。

汐音の可愛らしさに言葉を待つ余裕すら悠希は失っていた。


ギュっと包み込むように汐音を抱きしめると、遠慮がちに汐音も腰に腕を回してくる。

汐音が自ら体を密着させてきたことで汐音の柔らかい肢体の感触と甘い石鹸の香りが悠希の五感を刺激してきて自分でも心臓が早鐘を打っているのが分かった。


誰かとこんなことをすることになるなんて思ってもみなかった。

しかも、相手は学校の天使様、柏木汐音だ。

ただ、汐音としてはこの行為にそれほど深い意味はないだろう。

汐音の中での悠希の立ち位置としては、悩みを打ち明けられる頼りになるクラスメイトと言ったところだろうか。


きっと汐音に恋愛感情はない。

あくまでも兄的な存在として見ているはずだ。

だから、折角心を開いてくれた汐音に不純な気持ちを抱いてはいけない。

そう自分に言い聞かせても体が自分の物じゃなくなったかのようにドキドキが収まることはなかった。


それから三十分程して、いい加減、暴走する心臓を抑えきれなくなった悠希が声をかけた。


「柏木?……」


呼びかけても汐音から返事は返ってこない。

聞こえなかったのだろうかと耳元に口を近づけると、汐音からくーくーと何やら可愛らしい寝息が聞こえてきた。

いつの間にか汐音は眠っていたらしい。

あれだけ涙を流せば疲れるのも無理はないだろう。


こっちはドキドキさせられたっていうのにと心の中で軽く悪態をついて、汐音から離れようと汐音の後ろに回していた腕をほどくと、汐音は離す気がないようで、絶対逃がさないとでも言うように汐音が腕にぎゅっと力を込められた。


挙句に汐音が甘えるように悠希の胸元に顔をうずめてきたので、悠希は困ったことになったと僅かに眉をしかめた。


気持ちよさそうに寝息を立てる汐音を起こすのは気が引けるし、起こさなければ離れてくれそうにない汐音にずっと抱きしめられる形になる。

しばらく、汐音を起こすかどうか迷って悠希は汐音をソファに横たえることにした。

覆いかぶさってくるように抱き着いている汐音の体勢がきつそうに見えたためだ。


汐音を寝転がせて、立ち上がるために汐音の腕をほどこうとするとグイッと引っ張られて悠希は汐音の横に寝転がる形になった。

どうやら汐音は悠希を離すつもりがないらしい。

寝ているはずなのに、強い力でぎゅっと抱き締められて悠希は汐音からの脱出を少し先延ばしにすることにした。


ソファは三人掛けのものとは言え、横の幅はそこまでなく、二人で寝転がっているため、汐音との距離は近い。

先程よりは距離は変わらないどころか、悠希の目の前には汐音の寝顔があって再び、心臓がドキンと高鳴った。


分かりきっていたことだが、汐音は美少女だ。

長い睫毛、整った鼻梁、瑞々しい唇それに透き通るように滑らかな白い肌。

学校で天使様と言われているのも納得できる美貌の持ち主が目の前で安心したように無防備に寝ているだけでも並みの高校生ならどきどきする。

まず間違いなく。

それに加えて、視線を少しでも下に向ければ、服越しとはいえ二つの双球が揺れているのが見えて、嫌でも汐音が女なのだということを突き付けてくる。

さらにオスを滾らせてくるような甘い香りもよくない。


眼を開けば汐音の寝顔、目を閉じれば、それはそれで漂う香りと汐音の華奢ながら肉付いた一部分の柔らかさを感じて落ち着かない。

寝返りを打って汐音と向き合わないようにしようとしても、狭いソファの一角に追いやられているせいかそれもできそうにない。


やはり汐音から離れようと体を動かしてみたものの、この細い体のどこにそれほどの力があるのかいう力強さで体を固められていて、悠希は汐音から離れられなかった。

しばらく格闘していたが、結局、悠希は諦めて汐音に抱きしめられたまま、眠ることに決めた。

ただ、汐音に抱き着かれたまま眠るというのはハードルが高く、悠希が意識を手放したときには三時間ほど時間が経過していたが。

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