第30話

しばらく、お互い居たたまれない時間を過ごして、その時間を早く終わらせようと先に口を開いたのは悠希の方だった。

「柏木のお母さんはどんな人なんだ」

言ってから自分の発言がまずいものだということに悠希は気づいた。

確か、汐音の両親は既に亡くなったと汐音と初めて話した日に聞いた気がする。


「いや、やっぱり……」

気を使って悠希が発言を取り消そうとするとその言葉を遮るように汐音が懐かしむような慈しむような表情を浮かべて話し始めた。


「お母さんはほんわかした人だったわ、どこか抜けててマイペースで…………仕事でお父さんがいない時は毎日、本を私が眠るまで読み聞かせてくれた、私がわがままを言うと、困ったような顔をするのだけど、それでも私の言うことを理解してくれようとした……お父さんは寡黙な人だったわ、いつも新聞を読んでいて寝る前にはお母さんのマッサージを受けてた、きっと仕事で疲れてたのね、でも休日の日には私が声をかけると文字を教えてくれたし、一緒に公園でスポーツもしてくれたわ……」


一度、言葉を切って追憶を慈しむような表情を浮かべていた汐音の顔が不意に歪んだ。

過去を上手く乗り越えようとしてできなかったそんな表情に悠希には見えた。

汐音の瞳に溜まった一粒の涙がぽつんと落ちる。

「柏木……」

「これくらい平気よ、慣れてるから」


慣れている。

きっと汐音は過去を悲しもうとして一度も悲しめていないのだろう。

両親の死を受け入れられなかったのか、両親の死を分かってはいるものの悲しむ暇がなかったのか。

それは悠希には分からない。


ただ、くしゃりと顔を歪めた汐音の顔は触れてしまったらいなくなってしまいそうなくらいに儚げで、存在が薄れて消えてしまいそうで悠希の胸を締め付けた。


「ごめんなさい、不快な話をしてしまって……」

少し強張った声でそう言って目尻に溜まった涙を汐音が拭う。

ただ、悲しみを押し殺したような表情はそのままで。

その表情を隠すように立ち上がろうと腰を浮かした汐音の腕を悠希はギュっと掴んだ。


「矢城君?」

悠希の行動の意図が分からず、汐音が困惑の声を上げる。

その声はわずかに潤んでいて、心もとない。


別に汐音を引き留めた理由などない。

ただ、汐音をこのまま行かせたら、そのままどこかに行ってしまいそう。

この場で何かしてあげないと汐音が壊れてしまいそう。

なんとなくそう思った。


触れたら壊れてしまいそうな汐音の細い腕を引っ張る。

抵抗する気はないのか、汐音はあっさり隣に腰を下ろした。

「どこにもいくな」

命令口調になってしまったのは仕方ないだろう。

汐音の弱った態度を見せられて気が動転してしまった。


「別にどこにもいかないわ、他に頼れる人もいないのだし」

汐音の言葉は恐らく真実だろう。

手の中の小さく細い手を離しても汐音は家からいなくなるわけではない。

でも、最近、柔らかな表情を浮かべるようになってきた汐音が遠くに行ってしまうような気がして、悠希は力のない小さな手をギュっと力を込めて握った。

離さないとでも言うように。


「いいから、ここにいろ」

少し強めに言うと、悠希の手から逃れようとかすかに身をよじっていた汐音が完全に力を抜いた。

汐音がこの場から逃げようとする意識が無くなったのを見て話しかける。

「柏木の両親は優しい人だったんだな」

「ええ、とても優しい人だったわ、私にはもったいないくらいに」

「別にもったいなくはないだろ」

「えっ?」

「努力家で、真面目で頑張り屋な柏木を立派に育てた、柏木にふさわしい両親だ」

悠希の言葉に汐音は呆けたように固まった。

まさかそんなことを言われるなんて、思ってもみなかったそんな表情だ。


「……そうなのかしら」

自信なさげに呟いた汐音の言葉を優しく肯定する。

「そうに決まってる」


悠希の言葉をゆっくり飲み込むようにして理解した汐音の表情に悲しみが甦る。

「なら、どうして‼どうして……私を残してお父さんもお母さんも死んじゃったの‼ もっといっぱい話したかった、もっといっぱい褒めてもらいたかった、もっと一緒に暮らしたかった……」

汐音の心の中に溜まっていた願望が紡がれては空気に溶け込む。


両親が亡くなってから必死に今まで生きてきた汐音が誰にも漏らすことのできなかった不満、願望。

とめどなく零れるそれらがシャボン玉のように浮かんでは消え、こらえきれなくなったのか汐音の嗚咽だけが部屋には残った。


手を握ってはいるものの、どうにか汐音の悲しみをやわらげてあげたくて、悠希は瞳から涙を流す汐音の頭にそっと手を置いた。

悠希の手に反応して汐音が顔を上げる。

頬には涙が伝い、泣きはらしたためか目元も赤らんでいる。

悲しみ、悔しさ、苦しみが混じりあったような汐音の表情を見て、悠希は思わず、動かすつもりのなかった手を動かした。

小さな子供を泣き止ますように、優しく丁寧に、汐音の髪をなでる。

嫌がられるかもと思ったが、汐音は特に抵抗しなかった。

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