第一話 あたし、レンジャーになります!(1)

「よっしゃぁぁあッ!」とその場で叫ばなかったのは、我ながら自制心が働いたものだと思う。それくらいの、喜びが。確かに胸のうちにこみ上げてきた。

「小牧三曹、落ち着け」

 机を挟んだ先に座る、呆れたような尾花おばな二尉の声に、あたしは「え?」と首を傾げた。

「なにが、ですか」

 小牧あきら、もうすぐ二十四歳。高校を卒業してすぐに陸上自衛隊へ入隊し、今は衛生科に所属。救急救命士の資格もとって、救護支援や衛生教育も一年ぐらいやって──自分で言うのもなんだけれど、自衛官としてそれなりに経験とか努力っていうものを積んできて。今、更なるステップアップに踏み出そうというところなのに。それなのに、なんだろうこの上官の、訝しげな目ときたら。

「おまえはなぁ、すぐ顔に出んだよ。顔に」

「え、そうですか?」

 自分の顔を両手でぺたぺたと触ってみる。しまりのない、だらしなくゆるんだ口元。陶芸をするみたいに、慌てて顔回りを触って、引き締まった表情に整える。

 その様子を、尾花二尉はじとっとした目で見ていたけれど、一つ息を吐くと、こめかみを掻きながら話を元に戻した。

「まぁ、自分でも分かってただろうがな。選抜のデキも悪くなかった。そうさな……思う存分やってこい」

「はいっ! 部隊の看板を損なわないよう、必ずレンジャーになって帰ってきますッ」

 思わず敬礼をするあたしに、尾花二尉は「おう、頑張れよ」と適当な応援の言葉を投げて寄越した。

 陸上自衛隊レンジャー──有事の際には困難な任務にあたることになる、全国の隊員達のなかで八パーセントしか存在しない、特別な教育課程を施された正に少数精鋭。その訓練を受けるにも、厳しい素養試験や適性検査に合格しなければならず、またそれらに合格していざ訓練が始まったとしても、「地獄」と呼ばれる約九十日間が待っていて。それを乗り越えられた隊員だけが、資格を得ることができる──多くの隊員と、そして例に漏れずあたしにとっても、憧れの存在。


 ただし。レンジャー隊員に、女子は存在しない。


 女性隊員が年々増えていくなかで、それでも長いこと「レンジャー」は、女性隊員には扉が開かれていなかった。

 それが、去年の三月からとうとう、女性隊員の訓練を受け入れるようになった。その基準なんかも、揉めに揉めたらしいけれど、基本は男性隊員と変わらない。教育課程も男女混合で、同じ訓練を受けることになる。

 それに、あたしが参加できるんだ……!

「去年の一期目と二期目からは、女性隊員の合格者は結局出なかったからな……おまえがもし合格できたら、自衛官初の女性レンジャーだぞ」

「はいっ! 名誉なことですッ」

「そうだなとりあえず一旦落ち着け。そんで話を聞け。──いいか、つまりはそれだけ厳しい訓練っつーことだ。レンジャー訓練が地獄って言われてるのはじゃない」

「はいっ」

「あっち行ってからも、適性検査がある。それに落ちたらアウトだしな。送った矢先にまた迎えに行かせるなんて、無駄足踏ませるんじゃないぞ」

「レンジャー!」

「気がはえぇよバカ」

 ちょっと強い口調で言われて、慌てて口を閉じた。ふと、向かいで机に座っている、同じ三曹の田端たばたさんと目が合う。思わず、へらっと笑いかけたのだけれど、気づかなかったのかふいと視線を外されてしまった。

「……ま、とにかくそういうことだから。入校までに、できることはしっかりやっとけよ」

 尾花二尉の言葉に、「はいっ」とまた背筋を伸ばす。

「小牧三曹、全身全霊をかけてやりぬいてみせます!」

「分かったから、室内でいちいちでかい声を出すな」

「レンジャー!」

「だから、気が早いしうるせぇっつーの」


 勤務を終え、自主練のランニングも終わったあたしは、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、売店に入った。駐屯地内の売店──コンビニは、外のコンビニに比べると品ぞろえが良い。具体的に言うと、うっかりきらしてしまっていたプロテインも、ここならささっと買うことができる。

「運動したら、三十分以内に飲もうねプ・ロ・テイン〜」

 適当に口ずさみながら、ついでにスポーツドリンクのコーナーに足を向けると、見知った顔があった。

「あ、田端さん! おつかれさまですっ」

「……おつかれ」

 田端さんは小さくそう言うと、手に持っていたエナジードリンクを三本、カゴに入れた。

「走ってたのか?」

「はいっ! 体力、つけないとなんで」

 訊かれたから答えたのに、「うっせぇよ」と田端さんが嫌そうな顔をする。

「店ん中ででっかい声、出すなって。おまえのボリューム調整するツマミ、壊れてんじゃねぇのか?」

「やだなぁ、田端さんったら。冗談お上手なんですからー!」

「あはは」と笑うと、「わりとマジだかんな」と田端さんは半眼で溜め息をついて、うつむいた。その顔が、ふっと小さく歪む。

「半長靴はいて走ってたのか」

 言われて、自分の足元を見た。運動靴とは違う、黒くて脛まである、いわゆるコンバットブーツだ。あと、ちょっと重たい。

「レンジャー訓練中は、ずっとこれだって聞いたんで」

 あたしの言葉に、田端さんは「ふぅん」と唸った。目当ての飲み物を取り出しながら、「あのっ」と、あたしは少し勢い込んで続ける。

「田端さん、レンジャー行ったの、一昨年でしたよね。なにかアドバイスとか、あったら教えて欲しいんですけどっ」

「別にねぇよ」

 田端さんは、そうぶっきらぼうに言うと、レジの方へと歩き出した。

「田端さん。あのぉ……どこか、具合でも悪いんですか?」

「は? なんでだよ」

 小走りで追いかけてきたあたしを振り返りつつ、田端さんが眉を寄せる。「だって」と言いかけた頭に浮かんだのは、いつもの田端さんの、ちょっと控えめな笑顔で。

「なんて言うか、いつもと様子が違うなー、と。お腹でも痛いのかなぁなんて」

「……おまえは聡いんだか鈍いんだかわっかんねぇなぁ」

 会計を済ませたあたしたちは、そのまま営内の方へと歩き出した。田端さんはこっちをたまにちらっと見ると、頭をガリガリと掻いて、溜め息をついたりと、なんだか忙しい。

 それから、ようやく思いきったように「あのな」と顔を向けてきた。

「おまえが思ってるよりも、ずっと地獄だぞ。レンジャー訓練は」

「……はい」

 太めの眉を寄せながらきっぱりと言う田端さんに、あたしはこくりと頷いた。田端さんの眉間のシワが、ますます深くなる。

「風呂も飯も、時間なんてほとんど取れない。それどころか、水も飲めねぇ、ろくに寝ることもできねぇって日が続くし、その状態で何時間もぶっ続けで体力錬成、更に訓練、訓練、訓練……って、最後の方じゃマジで幻覚とか見えるからな。──ガッチガチに鍛えた、だ」

 じっと見つめてくるその黒い目に、あたしのぽけっとした顔がうつり込んでいる。

「えっと……」

 あたしはハッとして、姿勢を正した。弾みで、会計したばかりのプロテインとスポドリを落としそうになって、慌てて支え直す。

「ご教授、ありがとうございますっ」

「……は?」

「実際にレンジャーを経験された方のお話を聞くと、身が引き締まると言うか。いや、でも田端さんもあれですね。ツンデレってやつですね。アドバイスないって言ってたのに、ちゃんと心配してくれるなんて」

「おまえなぁ」

 髪を短く刈り上げた頭をぼりぼりと掻いて、田端さんは「はぁぁあ……」と深く息を吐いた。

「なんかもー良いや。おまえと話してると疲れるから」

「え? なんでですか?」

「うっさい。あとランニングも良いけどなぁ、ロープ使って腕も鍛えとけ。筋トレ大事だぞ」

「まじっすか! ありがとうございますっ。やってみます!」

「それからな、もう少し肉つけとけ、肉」

「え、なんですかそれ。セクハラですか」

「アホかっ! 訓練中はガッと体重が減るからな。最初にある程度、肉をつけとかねぇと途中でバテるぞ」

「へぇえ」とあたしは胸の前で両手を組んだ。

「ありがとうございます! 参考にしますッ」

「……ま、そんだけやっても厳しいのが、レンジャー訓練だけどな」

 田端さんのじとっとした目に、「はいっ!」と勢いよく手を上げる。

「田端さんの期待に応えられるよう、がんばりますッ」

「別に期待してねーよ」

「じゃあ期待はしなくて良いんで、応援してくださいっ!」

「お、応援?」

 珍しく、キョトンとした顔になる田端さん。なにか考えるように、少し視線をさ迷わせると、「えぇっと」と呟いて、レジ袋を持っているのと反対の手を握って拳を作った。

「フレー、フレー、小牧……?」

 拳を振りつつ言ってから、自分でもなにか違うと思ったみたいで、田端さんの口元がなにか言いたげにもにゅもにゅと動く。

 あたしはなんだか感激してしまって、その拳をがしっと両手で握った。

「田端さんって、意外に可愛い一面がおありだったんですね……っ!」

「う、うるせぇ! おまえが急に変なこと振ってくるからだろうがッ」

 あわあわと真っ赤になる田端さんの顔がまた物珍しくて。思わず見入ってしまうあたしを追い払うように、激しく手を振り回す田端さん。

「応援してやったんだから、おまえ絶対三ヶ月間、その顔見せんじゃねぇぞ!」

 早口で怒鳴るように言われたその言葉に。あたしは笑って「レンジャー!」と敬礼した。

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