パパもママも守っていたかった
二人で新しい契約書にサインをした日の夜、純は自室で勉強していた。机のライトだけを付けた状態で、物音を立てず、静かに教科書をめくる。
ペンを持つ手の動きが、止まった。純の耳が、玄関ドアの開閉音とヒールの硬い足音を聞き取る。
帰ってきたのは母親だ。純の起きている時間に帰ってくるのは久しぶりのことだった。
おかえりのあいさつぐらいはしなければと笑顔で立ち上がり、ドアに向かう。
「どうしてあんなこと勝手に決めたの!」
ドアノブに伸ばす手を、止めた。
艶のある母親の声は、激高している。
「無理に決まってるじゃない! 純がアイドルなんて!」
防音が施された家は、話し声も楽器の音も聞こえないようになっている。父親の作曲作業で生活に支障が出ないようにするためだ。
人一倍五感が優れている純には、効果がない。
「あなたっていっつもそうよね。私に相談もなく勝手に決めるんだから! 純は今年受験だってことわかってるの?」
――違う。パパのせいじゃない。
ドアノブを握ったとき、恵の声が続いた。
「悪かったよ。でも嫌ならいつでも辞めていいって伝えてるし」
「あの子は頼まれたら断れないし、途中で放り出せる子じゃないのは知ってるでしょ! アイドルなんて無理よ! ダンスも歌もさせたことないんだから」
「わかってる。俺だってさせたくない。でも決まったことはもう覆せないんだ」
憤慨している母親に対し、父親はあくまでも冷静に、落ち着いて返していた。
「あなたは保身に走っただけでしょ。息子をいけにえにしただけじゃない!」
「そうじゃない。だからこそ俺たちができることを考えないと」
「私たちがあの子のために何ができるってのよ! 今までさんざん純のこと使っておきながら! それもこれも、あなたが事務所に連れてったせいでしょ!」
母親のすすり泣く声が、純の耳に届いた。嗚咽とともに悲痛な感情が流れ込んでくる。
「あの子にアイドルなんて、できるわけないじゃない。どうして自分が嫌だったことを自分の子どもにさせるの? ねえ……」
「こうなった以上、俺たちはできることをやるしかないだろ。純がこれ以上傷つくことがないように、見守るしか」
「見守る? それだけでなんになるの?」
自分のことで言い争う、大好きな両親。部屋から出て行って止めようとしたが、やめた。ドアノブから、手を離す。
今出ていったところで、両親に気を遣わせる。言い争いはやむだろうが、「純のせいじゃない」と、二人が純に謝るところまで予想がついた。
「あの子が私になんて送ってきたかわかる? 私に自分の話をするなって言って来たのよ! あの子だって、自分がアイドルに向いてないってわかってるのに……!」
「そうだな。ごめん」
「しかもよりにもよってなんでグループなの! もう……!」
親の言い争いに泣くのは、小学生ぐらいだろう。純も情けないとわかっていながら、目に涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい……」
どうせこのつぶやきは、両親のもとまで届かない。
「ちゃんと……やるから……。二人に迷惑、かけないから……ごめんなさい……」
大好きな両親には、いつだって笑っていてほしい。そのために、自分の力を使っていたはずだったのに――。
こんな思いをさせたいわけじゃなかった。二人を悲しませたいわけじゃなかった。もう、後戻りはできないのだ。
これ以上二人を悲しませることのないように、二人の息子として恥をかかせないように、頑張るしかない。
純は両親に愛されているし、純もまた両親のことを愛しているのだから。
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