第105話




「その車両が置かれていたのは、近場の山頂です。その山は観光地としては景観も良くないので訪れる者はほとんどいません。私は自身の車の使用は控えました。何が仕掛けられているかわかりませんからな。ですので徒歩で向かいました。私もいい年になったもので、足腰にガタがきておりましてな……難儀な登山でした。とは言っても、標高は百メートル程ですがね」


 野本さんは自身の老いを皮肉るかのように笑いました。アタシはそこまで年齢を重ねることのないまま、こちらの世界に来てしまいましたからね。羨ましいような、そんなでもないような不思議な気分ですね。


「きしむ膝と震える太ももに鞭を打ちながら山頂へと向かいました。そして大量に汗を流しながらも到着した山頂には、数台分の駐車スペースがあり……そこには車両が一台だけ置かれていました。普通のセダンです。私はナンバーを確認しました。その数字は沙華さんが提示した物と同じで【1362】と刻まれています。そしてドアに手をかけてみました。力を入れて引いてみます……するとドアは開きました。運転席にはスマートキーが置かれており、私は運転席に乗り込むとエンジンをかけたんですが……異常は感じられませんでした」


 おお、ちゃんと車があったんですね。良かった良かった。これでしばらくは組織から逃げられますよね。出来ればナンバーが割れてしまう前に国外とかに脱出できればいいんですが、そうは上手くいかないんでしょう。それに、もしも飛行機に乗れたとして……墜落させられたりしてはたまったものではありません。


「エンジンに気を取られていたのが間違いでした。その時に気づくべきだったのです。エンジンをかける際に踏み込んだブレーキの軽さに……。ですが、初めて乗った車だった事もあって気づかなかったのです。そして私はアクセルを踏み込みました。焦りもあったのでしょう。普通に駐車場から出て、下り坂に向かうには速度を出し過ぎていました。もう察しておられるようですね。その通りです、その車のブレーキには細工が施されていました。そして、その車で坂道を下りきるのは……無謀に等しいものだったのです」


 いや、飛行機が落ちるよりはマシなんですけど……やはりと言いますか組織の手は回されていたようですね。というか、この車に細工がされていた訳ですし……実は沙華さんって怪しくないですか?


「車の速度は増していきます。パーキングブレーキも効きません。どうやらミッションをロックする爪が壊されていたようです。そして私は……ハンドル操作だけで下り坂に抗い続けました。無駄に車体をガードレールにぶつけたりもするのですが……加速は止まりません。遂には曲がる際にタイヤが鳴き始めてきました。もう持たない。私はそこで考えを改めました。この状況を乗り切るのは不可能だと……それならば取り返しがつかない速度に到達する前に事故を起こしたほうが、生き残れる可能性が高まるのではないかと。そして私は見つけました。あそこならば落下、転落する前に止まるのではないかという深い茂みです。私は覚悟を決めると、減速目的でタイヤに負担をかけるよう蛇行しながら……そこへと車を突入させました」


 こういった事故のモノローグを本人から聞かされると……なんだか引き込まれてしまいますね。まるでアタシも同乗しているかのような気持ちになってしまいまました。多分ですが、野本さんの話を聞きながら、アタシの頭はカーブに合わせて左右に揺れていたんじゃないでしょうか。ほら……ゲームとかでもそういう人っていますよね。実はアタシも、そんなタイプなんです。


「車は狙った茂みに突っ込みました。視界はガタガタと激しく揺れ、状況を認識するのは不可能になりました。いつしかフロントガラスにはヒビが入っています。そして車内に大きな衝撃が走りました。おそらく木に激突したのでしょうね。そして私は……意識を失ったのです」


 車は止まったんでしょうか? アタシは息を押し殺したまま……野本さんの次の発言を待ちました。




 少しの間が空きました。それはそれは長く感じられたものです。そして今、その沈黙が破られようとしています。


「私が意識を取り戻した先は、何処か知らない病室だったようです。しかし視界は塞がれていました。包帯が巻かれていたのでしょう。それとも事故で視力を失ってしまったのかもしれません。そして腕には針が刺されていました。点滴でしょうね。しかし、それを確認する事はできません。ほとんどの体の感覚が失われていましたから。しかし、ほとんどの感覚を失った私にも聴覚だけは生きていたようでして……私は声を聞いたのです」


 その声の持ち主がお医者さんだったら良いんですけど……多分、この願いは外れるんでしょうね。こういう時の予想は当たってしまうんですよ。


「それは女性の声でした。そして……何故なのでしょうか。死が目前に迫っていると感覚が研ぎ澄まされるんでしょうね。私は確信を持ちました。この女こそが事件の黒幕か、それに近い存在なのだと。そして彼女は言います」




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『どうも初めまして野本さん。私、中畑紗奈なかはたさなと申します』


 彼女はそう語りかけてきました。私は口を開く力すら残っていません。きっと彼女の語りを聞き終える頃には死んでしまうのでしょうね。それほどに衰弱していました。


『惜しかったですね。車の事故だけなら……ここまで重症にならずに済みましたのに』


 発言後、彼女の口からはクスクスと薄ら笑いが漏れていました。


『残念な事に事故の際……封筒が破れてしまったみたいでして、中身が溢れてしまったそうですわ。ええ、例の粉末ですわね。アレはリシンという粉末でして、呼吸困難を引き起こす毒物なんですよ。そして肝心な事ですが今現在……この世界においてリシンの解毒剤は存在しておりませんの』


 言われて気づいたのですが、どうやら私には人工呼吸器も取り付けられていたようですな。自力呼吸が困難だったのでしょう。そして解毒も不可能だと聞かされたのです。しかし、私の心は穏やかなものでした。もはや死から逃れる術がない事など、私が一番理解していましたから。




『そうそう、最後にですね……感想を頂きたいんですけど、どうでしたか? よく書けておりましたでしょ?』



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