5-8
ハルと夏紀の新居は五月下旬に完成し、二人はすぐに引っ越した。新しい家具は家具屋から直接送ってもらい、そのほかの細々した物の移動は恵子と徹二が手伝ってくれた。
料理が得意なハルは、キッチンの物の配置に口を出したそうにしていたけれど。
「普段は夏紀ちゃんがするんでしょ? オーナーは、徹ちゃんとね!」
楽しそうな恵子にキッチンから追い出され、
「俺の家なんだけど」
と、少しの間、口をとがらせていた。
夏紀が「ごめんね」と口を動かすのを見てから、ようやくハルは徹二に仕事を頼んだ。大きい家具は持ってきた人が置いてくれたけれど、微調整は全くできていない。
「テツ、もうちょっとこっちに押して」
「はい──、うわ、新品の家具って、緊張しますね」
「傷つけるなよ。床にも」
ハルはすこし冷たく言い、徹二も慎重になっていたけれど。
本当はものすごく嬉しいようで、思いっきり笑うハルを徹二は初めて見た。ハレノヒカフェにピアノを置いたときよりも、もっと楽しそうに見えた。
ハルをここまで変えたのは、夏紀以外にない。
徹二にとってハルは恋敵だったけれど、今はそんな気持ちはなくなった。
これからこの家でハルと夏紀は二人で暮らす──それを考えると、恋人のいない徹二は少し切なくなってしまったけれど。
夏紀は相変わらず明るく接してくれているし、ハルも店にいることが増えた。ハレノヒカフェで必要とされる人間になることが、今の徹二の目標だ。
「テツ、なに笑ってんの?」
「えっ? あの、その──。僕も早く、オーナーみたいになりたいな、って」
「あんまり早く追いつかれたら、俺が困る」
家具の配置をほぼ終えたハルは、ちら、と徹二を見てからキッチンへ向かった。夏紀と恵子もほぼ作業を終えていて、冷蔵庫の中身を見ながら恵子が夏紀に何かを教えていた。
手伝ってくれたお礼に徹二と恵子を食事に誘ったけれど、二人は断って帰っていった。
二人とも休みを返上で、徹二も大学の課題が終わっていないのにわざわざ来てくれた。ハルは本当にお礼をしようと準備していて、使わなくなった材料を少し見つめた。
「それ、何の生地? パン?」
「これはピザ」
「へぇー。あれ、いつ発酵したの?」
「いや、これは発酵無しのレシピ。テツ、ピザ好きって言ってたから食い付くと思ったんだけどな……。明日あげようか」
予定より一日遅れで出来あがったピザを、徹二は休憩中に嬉しそうに食べた。これなら残ってれば良かった、と後悔しながらも、ハルと夏紀の二人の時間を邪魔しては悪い、と二つの意見を何度も繰り返した。
「そんなテツに頼みがある」
「えっ、何ですか? また何か、力仕事ですか?」
不安そうに聞く徹二に、ハルは「だったら嫌?」と聞いた。
「嫌ではないですけど……オーナーの頼みだったら、何でもしますけど……」
口ではそう言いながら、徹二は後悔していた。
ハルの役に立つことなら何でもしたいというのは事実。けれど目の前のハルの視線が冷たくて、予想もしない言葉が飛び出しそうで──。
「俺さ、来月、めちゃくちゃ忙しいんだ」
ハルはテーブルの上にカレンダーを広げ、六月上旬の二週間ほどに赤ペンで矢印を付けた。
「まずここ、俺いない」
「え? ああ、仕事ですね」
「そ。これはいつものことだから大丈夫でしょ」
ハルがモデルの仕事で不在なのはいつものことなので、徹二も恵子も既に慣れていた。いまは夏紀が手伝ってくれている分、少し楽になっている。
「任せてください。お店のことは大丈夫です」
徹二が自信たっぷりに言うのを待って、ハルは次に中旬の日曜日に、少しためらってからハートマークを付けた。ペンに蓋をしてから徹二を見つめ、ほんの少し笑った。
「ここは臨時休業。次の日はどうする?」
ハルがハートマークを付けた日は、夏紀との結婚式の日だ。もちろん、ハルと夏紀は長期休暇を予定しているが、ハレノヒカフェはそんな予定はない。
「テツに任せるよ、営業するか、休むか」
「……良いんですか?」
「式場、ちょっと遠くになったから。テツにも受付頼んでるし、招待客多いから疲れるだろうし。城崎さんとか、他のメンバーとも相談して」
ハルと夏紀の結婚式場は、日程や人数の都合もあり、プロヴァンスからは遠いところになってしまった。夏紀の親族や友人は数えられる程度だったけれど、ハルの仕事関係者の数は夏紀の想像を越えていた。
「テツ──意外と、年上の女性からいじられそう」
「年上……。若いかわいいモデルって、いないですか」
「俺目線ではいない」
ハルに聞いたのが間違いだったと徹二は思い、溜息をついてから本題に戻った。結婚式の翌日は、休みにすることになった。結婚式には従業員全員が招待されているので、疲れて帰って接客するのは辛い。
「あと、七月上旬。ここも俺、いないから」
ハルは再びカレンダーに赤ペンで矢印をつけた。
「ここはナツもいないから」
「……楽しんできて下さい。新婚旅行ですよね」
「そ。だけどその前に、月末も忙しいから、俺もナツも、店にはいないと思っといて」
「大丈夫です。オーナーがいないのは、寂しいですけど、慣れてるので……」
徹二の言葉にハルは一瞬きょとんとしてから、「そっか」と呟いた。ハレノヒカフェがオープンした頃は、ハルはほとんど店にいなかった。もちろん夏紀も従業員ではなかったので、久々にあの頃の体制に戻ることになる。
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