4-10

 夏紀がハレノヒカフェでピアノを弾くようになる前、どこかで聴いたメロディをオカリナの音色で聴いた。あのときは何なのか思い出せなかったけれど、ハレノヒカフェで流れていた音楽だとあとでわかった。

 店の音楽はすべて、ハルのオカリナ演奏を録音していたもの。

 明るくて、楽しくて、けれど繊細で──。

 決して力強くなく、楽譜の指示がフォルテッシモでも、店内に大きな音が響くことはなく。けれど彼が奏でる音にはちゃんと強弱がついていて、聴いていて心地良かった。

 もちろんそれは、オカリナもピアノも同じ。

(そういえば、ここって……)

 建物からメニュー、音楽まで、何もかもがハルのプロデュース。

(もし付き合ってなかったら、冷たい人、ってずっと思ってたかも)

 ハルは二回も雨に打たれてしまったけれど、あのとき傘を持ってなくて良かった、と夏紀は思った。この街に戻って来るときに、プロヴァンスを選んで、一番下の家になって本当に良かった。

「──ツ。ナツ」

「は、はい」

 ハルはCDの再生を一旦止めて、夏紀のほうを見て笑っていた。

「この曲、聴いて」

 ハルは再び鍵盤に向き直り、静かに音を鳴らした。夏紀はもちろん、徹二や恵子も知っているそのメロディを、夏紀は涙なしに聴くことはできなかった。


 演奏が終わるとハルは、店内の音楽を録音に切り替えた。

 そしてカウンターに戻ってきて、夏紀の隣に座る。もちろん夏紀は嬉しいけれど、顔は彼から背けた。

「ちょっとオーナー、今の夏紀ちゃんの曲でしょ」

 カウンターに入っていた恵子は少しむくれていた。隣に立っていた徹二も、夏紀を心配そうに見ていた。

「そうですよ、何も、ここで弾かなくても……」

 ハルが弾いたのは、夏紀がさやかにサプライズで弾いた曲だった。

 夏紀には難しくて。全然上手になれなくて。

 諦めようと思ったけれど、ハルには許してもらえなくて。

 本番は大成功だったけれど、ハルの演奏のほうが格段に素晴らしくて。

「──本当はさ。俺が弾きたくてずっと練習してたんだ。まさか、先にナツが弾くなんて思ってなくて……」

 ハルの声を聞く度に、涙がこぼれ落ちた。

 自分とハルの演奏を比べて嫌になって、ではなくて。

 比べてはいけないと何度も彼に言われたし、今は絶対に比べたくはない。同じ五線に乗っかって、楽しいメロディを奏でたい。

「オーナー、彼女いるんだから、あんまり夏紀ちゃんに」

 恵子は何か言いかけたけれど、ハルの視線に気付いてやめた。

「──ナツだよ。俺の彼女」

 ハルの言葉に、恵子と徹二は目をまん丸にして、口を開けてしまった。

「そんな、夏紀さん……オーナーと……」

 やっぱり恋人だったんですね、と呟きながら、徹二はため息をついた。けれどハルを尊敬しているからか、夏紀への恋心には諦めがついたらしい。

「今の俺がいるのは、全部ナツのおかげ。ナツと出会ってなかったら、この店もなかったよ。それに──素直になれなかった」

 ハルは夏紀の両腕を掴み、自分のほうを向かせた。

「ナツ。もう分かったかもしれないけど……ちゃんと言わせて。俺と、結婚してください」

 ハルが一緒に夏紀の家に行くと言ったのは、きっと挨拶のため。

 ちょうど父親も家にいるし、母親は絶対に喜ぶだろう。交際数ヶ月で決めてしまうのは早い気がしたけれど、夏紀に迷いはなかった。

「私、あれが聴きたい──きらきら星の、ハルさんのアレンジ。長い曲って飽きてくるけど、あれだけは、特別だから」

「──ナツも何かで参加してくれる?」

「もちろん。オカリナで、良いかな」

 たとえ天気が悪くても、店内はいつもハレ。

 雨の日も営業することになったのは、ハルのそんな想いがあったから。

 二人の恋のメロディは、プロヴァンスに降り注ぎ、虹を渡して、星を降らせた。

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