4-8

 何もこんな日に降らなくても、と夏紀は朝から不機嫌だった。

 ハレノヒカフェが長い正月休みを終えて営業を始めたと聞いて、行く予定だった一月下旬の休日は朝から雨が降った。

 さやかが結婚して地元を離れ、夏紀は休日をほとんど家で過ごしていた。ピアノを弾くのも少し飽きてしまい、ハルにもらったオカリナを練習していた。少しは吹けるようになってはいるけれど、ハルにはまだまだ遠く及ばない。

 会社の休暇は一週間ほどで終わり、夏紀はまた家と会社の往復の日々になった。もちろん、向かいの家の二階からは、ときどきオカリナの音色が聴こえているけれど、二次会の練習が終わったのでハルに会いに行く口実がなくなってしまった。

 そんな中で、ようやくハレノヒカフェに行けるようになった日が、朝から雨だ。

 せっかくハルにも会える予定だったのに。オカリナの音色も聴こえていないのは、彼も雨に参ってしまっているからだろうか。

 階下で玄関チャイムが響き、それには母親が出た。

「はーい──あら! いらっしゃい! どうしたの?」

 明美の声は家に響いたけれど、訪問者の声は聞こえない。

「夏紀なら、部屋にいるわ。どうぞ」

 玄関のドアがガチャンと閉められ、誰かが階段を上って来る足音が聞こえた。人が来ることを想定していなかったので部屋は片付けていないけれど──汚くはないはずだ。

「おはよ」

「お、は、ハルさん、どうしたんですか、急に、朝から……」

「用事がなかったら来たらダメ?」

 ハルは言いながらドアを閉め、夏紀がいる窓際までやってきた。

「そんなこと、ないです」

 夏紀が言うとハルは「良かった」と笑い、夏紀を抱きしめた。

 甘い香りに包まれて、幸せな気分になる。ハルの手が夏紀の頬に伸びて、上を向かされる。視線が絡み合い、唇が触れる──。

「ナツ、元気にしてた?」

 出会った頃、ハルは冷たい話し方だったのに、今はとても優しくてまるで別人だ。夏紀が答えないのを「辛かった」と判断して、ハルは夏紀を抱く腕の力を強くした。

「二次会から、ほとんど会えてなかったから……今日も、雨だから……」

 カフェには行けず、もちろんハルにも会えないと思っていた。会えたことが嬉しすぎて、夏紀も力いっぱい彼を抱きしめる。

「もう大丈夫だから。もう、これからは──全休符はナシにするから」

「……え? どういう意味?」

 ハルの腕の中で夏紀は見上げ、首を傾げた。

「会えない日はないようにする、っていうこと」

 楽譜の一小節を一日として、とハルは笑った。

「とりあえず──行こうか、カフェに」

「えっ、でも、今日は休みなんじゃ?」

「ハレノヒカフェは──今年から、雨でも営業するようになりました。準備してたから、来るの遅くなって、ごめんね」

 ハルと一緒にやってきた甘い香りは、彼が作った美味しいデザートだ!

 

 夏紀とハルが階下に降りると、明美が居間から顔を出した。

「あら、晴仁君、もう帰るの?」

「はい、お邪魔しました。あ──これからちょっと、夏紀さんお借りします」

「はいはい、どうぞどうぞ。返してくれなくてもいいわよ」

 明美が笑いながら言うのでハルもつられて笑ったけれど、すぐに真顔になった。夏紀は既に「行ってきまーす」と言って靴を履いていたけれど、空気が変わったことに気付いてハルのほうを見た。

「詳しい話は改めてしますが」

 ハルは一旦、言葉を切って、夏紀のほうを見てから明美に向き直った。

「真剣に、お付き合いさせていただいています」

「──え?」

「それじゃ、すみませんが、失礼します」

「うん、またね……って、ちょっと、晴仁君! 夏紀!」

 明美は慌てて部屋から飛び出したけれど、同時に夏紀とハルの姿は玄関の外に消えてしまった。

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