4-3

「笠井さん、まだ頑張る? 先に帰るね」

「あ──お疲れ様です」

 夏紀の残業が増えたのは、いつ振りだろうか。

 ハルとの練習の疲れがたまり、仕事に影響するようになった。もちろん仕事のほうが大切なので終わるまでは帰れない。同僚たちは定時や短い残業で帰っていくけれど、夏紀はなかなか帰れない。

(ハルさん、待ってるかな……)

 帰りが遅くなることは母親には伝えているけれど、ハルには何も言ってこなかった。

(でも、向かいだし……何とかなるかな……)

 夏紀の携帯電話に、何度か家から電話が入っていた。

 けれどそれに応える余裕はなく、夏紀は仕事に集中した。パソコンを見つめる目が閉じそうになっていくのを、ミントの飴を口に入れて必死に耐えた。


「ただいまー……」

 夏紀が家に着いたとき、時計の針は二十二時を過ぎていた。

「おかえり。晩ご飯食べた?」

「ううん……まだ……」

 夏紀はふらつきながらソファに荷物を置いて、少しだけでも食事をしようと席に着いた。

「仕事、大変なの?」

「うーん……年末近いからちょっと増えたかなぁ。疲れが溜まって、効率悪くなってるだけかも」

「疲れてるなら、早く寝なさいよ。あと──今日はピアノのことは考えないように、って晴仁君から伝言」

 母親からのその言葉を聞いて、夏紀は箸に挟んでいたご飯を茶碗に落としてしまった。夏紀の知らない間に何があったのか、明美は続けた。

「夏紀はまだ帰らないですか、って訪ねてきたのよ」

「そうなんだ……」

「八時頃だったかな? いつもなら練習してる時間なのに来ないから、って。難しいのをやってるから疲れてるんだろうって、心配してたわよ。だから、今日くらいは、ピアノのことは忘れて休んで、って」

 出会った頃はあまり話さなかったのに、最近のハルは本当によく喋る。

 やっぱり彼は優しい、と思いながら夏紀は黙って食事を続けた。さすがに今日はピアノを弾く体力は残っていないし、そもそも時間が遅すぎる。ハルの部屋からオカリナが聞こえて来なかったのも、時間を考えてのことだろう。

「会うまでは、どんな子かしら、って思ってたけど、良い人なのね。晴仁君。夏紀のこと、お願いしといたから」

「──え? 何を?」

「決まってるじゃない、お嫁さん候補によ。晴仁君──夏紀が振り向かない、って泣いてたわよ。何が嫌なのよ。完璧じゃない。嫌いじゃないんでしょ?」

 ハルが泣く──それは、大袈裟に言っているとして。

 夏紀が彼に本気になれない理由を、もう一度、考えてみた。

 家が近すぎるから。そんなの、何も問題ない。家族じゃなければ親戚でもないし、結婚するには何も問題ない。

 年齢差がありすぎるから。最近は全然珍しくないし、八歳差なんて可愛いほうだ。

 完璧すぎて気後れするから。こればっかりは夏紀の気持ちが、本当についていかなかった。非の打ちどころがない以上、自分が劣って見える。ハルがどこまで本気で言っているのかわからないし、余計に不安になる。

 食事を済ませて部屋に戻り、夏紀はカーテンを開けた。

 向かいの窓の向こうの人は、何を考えているのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る