第3章 秋~fall~
3-1
「笠井さん、何か良いことあったの?」
「え? 何も無いですよ。むしろ嫌なことがありましたけど」
ハレノヒカフェでのピアノを辞めてから、夏紀は残業がゼロになった。ピアノを始める前も無いにほぼ等しかったけれど、それ以上に、本当にない。
ハルのことを考えないと決めた分、仕事に集中できた。
一生懸命働いている姿が、同僚には嬉しいことがあって張り切っているように見えたらしい。
「嫌なことって……あれ春じゃなかった? 失恋したの」
「ハル……あんな奴、どうでもいい……」
その単語を聞いた瞬間、夏紀は字を書いていた手に力が入り、シャーペンの芯を折ってしまった。
「どうせ気まぐれで生きてるんだから。もう、関わらない」
「ハルって、確か、超イケメンって言ってた人?」
「見た目だけですよ。中身は、最低なんだから」
夏紀がピアノを辞めると言っても、ハルは引き留めようとしなかった。
ハルが教えてくれたから、引き留められると信じていた。
けれど実際は全く気にせずに、店を出てからも、やっぱり待て、と追いかけてきてはくれなかった。
彼は、本当に気まぐれだったんだ。
最初から夏紀を、と言ったのも、絶対に気まぐれだ。
月に何度か行っているさやかとのランチも、ハレノヒカフェから場所を変えた。駅前に小さなカフェがオープンしたので、そちらに変更になった。
「本当にもう行かないの?」
パンケーキをナイフで切り分けながら、さやかが聞いた。窓側の席に案内されてはいるけれど、駅は標高が低いので景色は良くはない。駅前ロータリーがただ広がっている。
「こないだ行ったらさ、城崎さん、心配してたよ。徹ちゃんも」
「そりゃ、行きたいけどさ……。会いたくないもん」
本当は夏紀は、ハレノヒカフェには行きたくて仕方がない。
恵子や徹二に会いたいし、テラスからの風景も、もう一度見たい。
「それに──あっちのほうが、良いよ」
駅前のカフェも繁盛している、けれど。
料理の味も盛り付けも、店舗の内装も、なにもかもがハレノヒカフェのほうが良いと夏紀は思った。駅前のカフェに特に悪いところは無い──けれど、ハレノヒカフェのほうが居心地が良かった。
「でも、あれも全部、オーナーがやってたんだもんねぇ……行きにくいか、夏紀には」
「うん。しばらく、無理」
どうしてハルがオーナーなんだろう、と夏紀はため息をついた。
彼がオーナーじゃなかったら、恵子や徹二に会いに行くのに。
彼がオーナーをしているから、いつ会うかわからないから、足は向かなかった。
「夏紀はさ、本当は会いたいんだよ、オーナーに」
「なんで、そんなこと……」
「顔に書いてるよ。私を誰だと思ってんの」
夏紀は何も言わず、たださやかを見つめた。
それから視線を窓の外に向け──山の上に広がるプロヴァンスを見た。
「そうかもね……。確かに、会いたいかもしれない。でも、また嫌な思いするんだろうし。しばらくは行けないよ」
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