2-11
さやかとは彼女の家の前で分かれ、夏紀は一人になった。
「良い人だと思うよ。お似合いだし」
さやかが言っていたことを思い出して、もう一度、ハルのことを考えてみた。
(冷たくなかったら、完璧なんだけどな……)
彼とお似合いと言われて嫌な気はしないし、どちらかと言うと嬉しかった。ピアノを教えてもらうときの距離を思い出すと、思わず照れてしまう。
(カッコいい……よね、確かに……)
いつもより少し早めに歩き、そのまま玄関を開けて階段を駆け上った。部屋に着いて荷物を置いて、窓を思いっきり開ける。
外はまだ暑いけれど、風は爽やかで。
(あー気持ち良い……あ──久しぶり……)
しばらく聴いていなかったオカリナが久々に聞こえた。懐かしい日本のメロディに耳を傾けながら、夏紀が思い浮かべるのはプロヴァンスの景色だった。柔らかで、温かくて、楽しくて、美しい──。
脳裏に映ったのは、ハルの綺麗な横顔。
その瞬間、思わず頬が緩んだ。
(やだ、なに私……なんでにやけてんの)
顔を元に戻してから、夏紀は鞄の中から楽譜を取り出した。五線の音符を目で追うと、ときどき手書き文字に目が移る。ハルが書いた赤い文字が、記憶を呼び起こす。
(そうだここで弾き方を……)
教えてもらったときの距離が近かったな、彼の手が触れた気がしたな、なんて思い出して、夏紀はまた頬を緩めた。
(もう、こんなんじゃ復習にならないよ……)
それはもう、緩む、という範囲を超えていた。
夏紀は楽譜を机に置いて、窓から向かいの家の二階を見た。ハレノヒカフェの白いピアノを思い浮かべ、そこに自分とハルの姿を入れてみる。
目を閉じて、オカリナを吹いているハルを想像する。それに合わせて夏紀はピアノを弾く。真剣に楽譜と鍵盤を見つめる夏紀と、それをずっと見守るハル。夏紀が不意に顔を上げると、そんな彼と視線が合う。
(やだ、もう……妄想しすぎ)
夏紀は確信した。
彼に恋をしてしまっていると──。
ハルとは距離を縮めない、と思っていたはずなのに。
気がつけば夏紀は、ハルのことを考えていない時間のほうが珍しくなっていた。ハレノヒカフェにいるときはもちろん、仕事中も、雨の日も、オカリナの音色を聴いているときも、頭に浮かぶのは、いつもハルのこと。
好きになるのは夏紀の自由、だけれど。
問題なのは、それが夏紀の生活に支障をきたすことだった。
ハルのことを考えすぎて、つい演奏中もそうしてしまう。手元の鍵盤を見ながらも、脳内に再現しているのはハルの綺麗な笑顔。次はどんなメロディなのか、すべて指の記憶に任せきりだ。
幸い、音を外してお客さんに不快な思いをさせることには至っていないけれど、いつそうなってもおかしくない状態だった。それくらい夏紀は、演奏に集中できなくなってしまっていた。
「夏紀ちゃん、オーナーが気になるのはわかるけど……間違えないでよぉ?」
「はい……あの、城崎さん」
「ん? どうしたの?」
店の奥に戻ってから、夏紀は恵子を呼んだ。ハルは例のごとく誰より早く、荷物を片づけてどこかに消えていた。車の音はしていないから、まだ店内のどこかにはいるはずだ。
「私──、ピアノ、辞めようと思うんです」
「え?」
ピアノを弾くのは楽しいし、ハレノヒカフェもお気に入りだ。
けれど、どうしてもハルのことを考えてしまって、隣でピアノを弾いているのが辛くなってしまった。仕事中も気になって、残業をする日も増えてしまった。
「無理に続けてとは言わないけど……寂しいわねぇ。オーナーには話したの?」
「ま、まだです。言い辛くて……せっかく、ハルさんから呼んでもらったのに」
コツ、コツ──。
「別に、俺は構わないけど。やるも辞めるも、あんたの自由だし」
いつの間にか現れたハルは、壁に片腕を立てて傍に立っていた。
出会った頃と変わらない、何を考えているのか全く分からない表情だ。
「好きにして良いよ。俺は引き留めない」
「オーナー、そんな冷たいこと言わないでよ、夏紀ちゃん可哀想じゃない」
「そうですよ、演奏楽しみに来てるお客さんもいるのに」
相変わらず冷たいハルに、恵子と徹二は言い返してくれたけれど。
ハルの表情は全く変わらず、じっと夏紀を見つめていた。ハルは夏紀が好き──とは、思えるはずがなかった。
「あの噂──俺は気にしてないし。誰が言い始めたんだろうね」
ははは、とハルは笑っているけれど、他は誰も笑えなかった。
「好きにすれば? ま──また見つけるから」
「そうですよね……私なんかいなくても……もっと上手い人……。さよなら!」
「あっ、夏紀ちゃん!」
気付いた時、夏紀はプロヴァンスの坂を全速力で駆け下りていた。
ハルに引き留められなかったことが悔しくて、楽譜は一切、持ち帰らなかった。
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