1-3
突然降り始めた雨が、夏紀の肩を打った。
ぽつり、ぽつりと、だんだん強くなり、すぐにザザザ、と音が変わった。
髪も濡れて頬に付き、化粧だって崩れたに違いない。鞄だってビニール製じゃないから、中身が濡れていない保証はない。
暗くなるし、早く、家に帰らないと。
けれど足は動かなかった。怪我をしているわけではない。固定されているわけでもない。
雨のかからないところに行かなければならない。
わかってはいるけれど、どうしても、体が動かなかった。
日曜日、夏紀は恋人と会い、珍しく彼が家に来てくれることになった。その道の途中、坂道を歩いて話してる間に、毎度のごとく喧嘩になった。
そして、そのまま彼は去っていった──夏紀は、ふられた。
悲しいとか、悔しいとか、そういう感情はあまりなかった。
わかっていた──いつかこの日が来ることは。すれ違いはじめた頃から覚悟はしていた。だらだら繋いでいただけで、好きな気持ちは既に無かったのかもしれない。
雨に濡れた夏紀の服はずいぶん重くなっていた。
ようやく身体が動き出して足が前に出た。けれど走る気にはなれなかったし、今さら急いでも無駄だ、と思った。服は洗濯すればいいし、靴も乾かせば良い。唯一気になったのが鞄の中身──けれどそれも、諦めていた。
一歩ずつゆっくりと歩いているうちに、雨は止んだ。
と思ったけれど、違った。
「濡れてる。風邪ひくよ。傘ないの?」
傘を差した若い男性が隣に立っていた。自分の傘を半分、夏紀に貸してくれていた。
「ほら、持って」
男性から傘を差しだされ、夏紀はためらってからそれを握った。
「ありがとう……ござい、ます……」
夏紀が傘を自分の高さに降ろしている間に、男性は歩き出していた。
「あの、これ……」
「良いから、使って」
男性は片手を軽く挙げると、そのまま走って行ってしまった。
借りた傘を差したまま、夏紀はしばらく立ち尽くしていた。激しかった雨の音はいつの間にか弱くなっていた。
(あれ……また、オカリナだ……)
やっとの思いで帰宅した夏紀を迎えてくれたのは、ピアノ教室の二階から聞こえるオカリナの音色だった。雨音に負けてはいるけれど、それでも夏紀にはちゃんと届いた。
(このメロディ……あのジブリのテーマだ……)
家の門を開けるのを、夏紀はメロディが終わるまで待った。
濡れた服は早く脱ぎたかったけれど、それ以上に今は優しい音色に包まれていたかった。雨がテーマの切なさが、夏紀にはちょうど良かった。
家に入るとすぐ、夏紀はシャワーを浴びた。
着ていた服はすべて洗濯して、靴も乾かした。
心配していた鞄の中身もなんとか無事だったけれど、鞄だけは元に戻る気はしなかったので、別れた恋人の思い出と一緒に捨てることにした。
(あの傘、どうしよう)
青年が貸してくれた傘は、既に玄関に干してある。ドライブから帰っていた両親に事の経緯を聞かれたので、恋人と別れたこと以外を簡単に説明した。
(今度いつ会えるかなんか、わからないし……)
夕方だったのと、雨が降っていたのと、濡れて髪が顔に張り付いていたのとで、夏紀の視界は良くはなかった。けれど青年の顔をはっきりと覚えているのは、とても美しかったからだ。
恋人と別れて辛いときに急な雨に打たれて、散々な目にあっていた夏紀を助けてくれた人。名前は聞けなかったし、どこに住んでいるのかもわからない。顔しか覚えてないなんて、探しようがない。
(まさか
それに、会いたいけれど、会うのも怖い。
彼がどういう人なのかもわからない。
化粧が崩れて変な顔だっただろうから、笑われるのも辛い。
『近くに住んでるんだし、久々に会おうよ!』
と、さやかから電話があったのはその日の夜だった。
公民館の近くにお洒落なカフェがオープンしたので、行ってみたいらしい。
「それじゃ、土曜日のお昼かなぁ? さやか、土曜は大丈夫?」
『私は大丈夫なんだけど……問題は天気よ』
「天気? 雨でも良いよ、頑張って坂上るから」
笑って夏紀がそう言うと、電話の向こうでさやかが『あのね』と言った。
『そのお店、雨の日は営業しないんだって』
「えっ、そんなのあるの?」
驚く夏紀に、さやかはカフェについて知っている限りの情報を伝えた。
オープンしたのはつい最近で、名前は『ハレノヒカフェ』。名前の通り晴れの日のみの営業で、雨の日は休み。開放的な店内でデッキテラスもあって、紅茶とワッフルとオムライスが美味しい、らしい。
さやかの家の前で待ちあわせることになって、夏紀は電話を切った。
天気予報が当たっていれば、土曜日は快晴だ。
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