兄を食う

神澤直子

第1話

 兄が死んだ。


 2×××年、第◯次世界大戦が勃発。

 私も兄も戦争なんて無縁と思われるような貧しい国の、中でも特に貧しい村で生まれ育った。戦争が起こったことは知っていたけれども、まさか私たちの村が戦場になるなんて、そのときは誰も思っていなかった。否、戦場になったわけではない。

 ただ、隣国の首都への爆撃へ巻き込まれただけである。

 最後の大戦からすでに100年が経過しようとしていて、100年前の大戦の反省から各国独自で協力な兵器の開発に取り組んだ。平和なんて糞食らえ、それが100年前の大戦の結論だったのだ。

 その結果、それまで一番の破壊力だった核の数百倍の威力を持つ爆弾が開発されたのだ。世界はギリギリの均衡を保ち100年束の間の平和を享受していた。そして、今回その爆弾が投下された。

 私と兄は爆弾が投下されたとき、ちょうど村の東にある洞窟にいた。母が病に倒れ、勿論医者にも罹ってはいるが、少しでも良くなればと思い二人でその付近に生えている薬草をむしりに行ったのだ。その時、ちょうど上空を戦闘機が通って行った。

 そういえば、昨日ラジオで大規模な空襲が行われると言うニュースがあった。ここは隣国の首都から約100kmほど離れていて、おそらく巻き込まれることはないだろうが--。

 そう考えた時、近所から爆発音が聞こえた。まさかと思って、私たちは慌てて洞窟の中に隠れた。おそらく誤射だったのだろう。その一発のみの爆発の後はまた辺りは静かになった。

 私たちはそれでも慎重で、もう暫くここに隠れていようと言うことになったのだ。洞窟の中は日の光が届かないので、ひんやりと肌寒い。兄は自分が着ていた上着を私に渡して、自分は寒いのに我慢をしているようだった。

「母さんは、大丈夫かな」

 と私が訊くと、兄は

「大丈夫さ。いざとなったら、村のみんなが助けてくれるさ」

 と答えた。

 暫く静かだった。

 そろそろ洞窟を出ても大丈夫だろう。そう思って、兄と二人外に出る。それから少し歩いた時だった。

 突然風が鳴った。

 正面から熱風が押し寄せる。

 兄が「走れ!!」と叫んだ。

 私たちは必死に走って、また洞窟の中へと駆け込んだ。

 熱風が私たちに追いつく直前で私たちは洞窟へ入ることができた。熱風が洞窟のそばを吹き抜けていく。バチバチと森の木が燃えている音がする。さっきまでひんやりとしていた洞窟の中は、うってかわって汗が流れ落ちるほどに暑い。

 二人で暫く怯えながら蹲っていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。あたりが静かさを取り戻して、私たち兄妹はやっと洞窟の外へと出た。

 そこで見たのは辺り一面の焼け野原だった。

 さっきまではあんなに生き生きとした木々が生い茂っていたのに、今はもう真っ黒な炭と化した木が寂しく残っているだけだ。

 私たちは外の様子に愕然とした。そして、自宅で寝ているはずの母の様子が気になった。ちゃんと避難できただろうか。母だけじゃない、村人たちも無事だろうか。

 村に戻るとそこには惨状が広がっていた。

 逃げ遅れた人間だっただろうものがそこらかしこに落ちている。ここら辺の地域では木造の建物が多いせいで、半分崩れかけながらも残っているのは村の中央に位置する教会だけだった。もちろん私たちが住んでいた家なんて跡形もない。

 どこかに生き残っている人はいないかと私も兄も必死で探したが、誰一人として見つけることはできなかった。

 焼け野原に私と兄だけが取り残された。

 ここにいても仕方がないと私たちは判断した。

 国連の救助隊がこの貧しい村を訪れることなんて考えられるのだろうか。世界は今戦乱の真っ只中だ。もっと大きな町へ人員を割くだけでも手一杯だろう。きっと、ここに留まっていても私たちは見殺しにされるのだ。それよりだったら、安全な他国へ亡命するかまたは生き残りのコロニーに合流するか--これはもしそんなものがいたらの話ではあるが。

 爆風と熱波に襲われた村の建物の中から、私たちは熱によって変形して切れなくなってしまったナイフをないよりもマシだろうと拾った。

 そして、私たちは安全な地域へと亡命するべく、歩き出したのだ。

 その晩だった。兄が処女だった私を犯したのは。

 極限の状態で、一種の生存本能のようなものだったのだろう。

 兄は優しい人だった。そして、とても信心深い人だった。私は神へ祈ると言う行為をめんどくさく思っていたが、兄は違った。いつも笑顔で、皆に優しくて理想の兄だった。

 そんな兄が初めて神に背いた。

 私は行われている行為よりもいつも優しかった兄が急に凄まじい力で襲ってきたことに恐怖し、抵抗すらできなかった。それから毎晩兄は私を抱くのだが、私を抱いているときの兄の表情はまるで悪魔に乗り移られたように険しく、そして悲しかった。夜だけ、夜だけ我慢さえすれば、日中の兄はいつもの優しい兄に戻ってくれる。私はそう思って毎日を耐えた。


 そんな兄が今日、死んだ。


 おそらく原因は飢餓だ。

 私たちは、私たちと同様に戦禍を逃れた野ウサギなんかを捕まえて食べた。しかし、そんな動物たちもごく僅かで、一日に必要なカロリーには全く足りない状態だ。しかも兄は妹の私を思ってか、捕まえたものの多くを私へと与えた。

 身体の大きな兄の体力が限界を迎えたのも無理はない。

 骨と皮だけになった兄の遺体を前にして、私には複雑な感情が起こった。

 優しかった兄。

 幼い頃から一緒に育った兄。

 大好きだった兄。

 でも、私を犯した兄。

 大切な存在を失って、泣きたかったがどうしても涙が出てこなかった。

 極限の状態だった私は兄の遺体を食べることに決めた。

 ただでさえ食料が足りないのだ。肉親だろうがなんだろうが、少しでも腹のたしになればいい。きっと兄もそれを望んでいる。骨と皮だけのこの人間のどこに食べるところがあるかと言われるとそれまでなのだが、それでもないよりはマシだろう。

 さて、まずは解体をしなければならないと思った。

 動物の調理は全て兄が行っていたため、どうしていいもよか私は悩んだ。料理は女の仕事だが、動物を仕留め、解体するのは男の仕事だ。私は少し悩んで、ニワトリを思い浮かべる。そうだ。ニワトリはまず首を切り落として血抜きをする。それから羽をむしって--。

 私は目の前の人間を眺めた。

 そして、半分切れなくなったナイフを首許に押し当てる。少し力を入れたくらいじゃ刃が通ることはなくて、私はノコギリの要領で前後にナイフを動かした。

 すると、プツンという感触がして温かな血液が噴き出してきた。勢いよく噴き出した血液がモロに私にかかったが、私は構わず手を動かし続ける。

 しかし、私は兄の首を切り落とすことはできなかった。人の身体は思いの外頑丈だ。女の力で解体するのは、--ほとんど切れないナイフで解体するのは時間も体力も消費する。

 少し頑張ってみたけれども、私はあえなく諦めてどうしようかと再び悩み始める。とりあえず皮をはいでおこうと思って、肩のあたりにナイフを入れた。

 皮を剥ぐのは比較的楽だった。少しずつナイフで削っていく必要はあるが、それでも大して力は要らない。しかし、それでもかなりの時間を要するので、私はイライラしてすぐに止めてしまった。

 そんな悠長に三時間も四時間もかけて皮なんて剥いでいられない。今、私はとてつもなく空腹なのだ。

 次に私は魚の調理を思い浮かべる。

 魚は頭を落として、それから内臓を出す。確かに内臓は邪魔だ。

 目の前の人間の腹にナイフを突き立てた。ぶすりと薄い膜を突き破って腹腔に突き刺さるナイフをゆっくりと下へと下ろしていく。切れ味の悪いナイフは途中何度も何度も立ち止まりながらも、なんとか下腹部までたどり着いた。

 私は人間の割かれた腹の中にえいと両腕を突っ込んだ。

 凝固しかけた血液と、生温かい内臓の感触がもろに腕へと伝わってくる。内臓は昔異国の地で食べた豚の内臓と同じ感触がした。その瞬間、この目の前に転がっている人間が元々兄だったというとを思い出し、急に吐き気がこみ上げてきた。吐き気がこみ上げてきても、ほとんど何もない胃の中では吐けるものがなくて、ただ苦しいだけのそれを私はゴクリの喉の下の押し込む。

 内臓を掻き出す。

 人間の内臓なんて初めて見た。これが大腸で、これが小腸……これが肺で、これが心臓か、なんて少しだけ楽しかったが、全て掻き出した後にこの内臓をどうしようかと思った。

 よく考えたら骨を除いて、いくら肉付きの悪い身体とは言っても持ち歩くには些か重量がありすぎる。ジャーキーにすればいいのかもしれないけど、そんなものを作っている時間にも私は移動をしたかった。

 --だったらわざわざ解体する必要なんてないのではないか。

 解体なんかしなくても今あるこの死体から肉を削げばいいのだ。そんなに難しいことなんかない。

 私は火を起こした。

 パチパチと燃え上がる炎は暖かく、妙に心を落ち着ける作用がある。

 火が完全に燃え上がって、私は目の前の腿のあたりにナイフを入れる。筋肉は思いの外柔らかく、骨と皮だけの身体で、すぐに骨に当たるかと思ったが案外食べられる箇所は多かった。

 その肉を火であぶる。炙っている最中にふと兄が「動物で一番美味いのは目玉なんだ」と言っていたことを思い出す。兄はそう言って私に何度も目玉を勧めてきたけど、私は気持ちが悪くて毎回断っていた。

 --目玉か。

 私はそれの目蓋をこじ開けた。

 ギョロリと、濁りのない真っ青な瞳と目があった。私の瞳と同じ色の瞳はすっかり光を失って、ただ虚空を見つめている。私はその眼孔に指を差し入れた。ぶりゅん、と目玉が抉り出される。眼球についてきた神経をぶちぶちと引きちぎった。もう片方も同じ要領で取り出す。

 取り出した目玉は串に刺して火で炙った。生で食べるのには些か勇気がない。

 暫くそうしていた。

 しっかり火が通ったなと思って、目玉を口に含む。勇気を出して、噛んだ。目玉はプチュンと簡単に潰れて、口の中にどろりとした液体が広がった。

 その瞬間、目の前の--私の手でぐちゃぐちゃにされた男が兄だった生き物だったことを思い出して、猛烈な吐き気に襲われた。私はなんということをしていたんだ。まさか、人間を--自分の兄を食べるなんて。

 私は吐いた。胃の中に入ったものを全て吐いた。

 とは言っても、胃の中には何も入っていない。ただ酸っぱい胃酸だけが口から吐き出され、涙がボロボロとこぼれた。

 嘔吐で苦しくて泣いているのか、それとも兄が死んだのが悲しくて泣いているのかはわからない。ただそれかきっかけとなって、今まで張り詰めていた何かが突然切れた。

 私は声を出して泣いた。

 どんなに泣いたって、周りには誰もいない。今まで泣いていたらきまって慰めてくれていた兄も死んでしまった。

 助けてくれる人は誰もいない。

 私は泣き続けた。泣いて、泣いてやっと泣き止んだ頃には日は傾きかけていて、さっき起こした火はもう消えていて、兄は冷たく固くなっていた。

 私は再び火を起こす。

 そして、また転がった兄の肉をナイフで削ぎ落とした。その肉に火を通す。

 そして、口に含んだ。兄の肉は血の味がした。

 当たり前だ。適当に捌いたのだ。筋肉の中に残っている血液はそのままなのだから。

 肉を噛みしめる度に吐き気がこみ上げてくる。でも、私は吐かないと決めた。少しでも兄を私の血肉に変えたかった。兄の分まで私は生きなければならない。また、涙が溢れてくる。

 どうして、私は今こうしているのだろう。本当だったら、貧しいけど平和だった村で今でも変わりのない生活を続けていただろうに。

 これは夢だと思いたかった。

 でも兄の肉の味が、どうしてもこれが現実だと思い知らせてくる。

 私はひたすら食べた。久しぶりに満腹という状態になった。満腹だけど、それでも食べた。少しでも食べて栄養にしたかった。少しでも、少ない荷物で歩かなければならない。

 吐き戻す直前まで食べて、私はそのまま寝た。

 次の朝、私の隣にはもう兄とはわからないくらいにぐちゃぐちゃになった遺体が転がっていた。

 私はその遺体に再びナイフを入れる。そして、兄の持っていたバッグになるべく肉を詰めた。

 そうして、私は再び歩き始めた。

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兄を食う 神澤直子 @kena0928

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