猫辞典

おぎおぎそ

猫辞典

 無限の猿定理、というものがある。


 どんなにランダムに――さながら猿が適当に叩くように――キーボードを叩いていようと、いつまでもそれを続けていればいつかはシェイクスピアの戯曲と全く同じ文字列が現れる。ただしその確率は恐ろしいほど微小、かかる時間は無限に等しい。


 眠気覚ましのコーヒーを淹れながら、仕事中のパソコンを台所から溜息まじりに眺める。


「ムギが書いてくれたらなぁ……」


 パソコンの横で丸くなっている飼い猫を恨みがましく見つめてみたりもしたが、そんな呟きが無駄であることはわかっていた。


 猫の手も借りたい、とはよく言ったものだが、辞書編纂の仕事は猫に最も向かない業務のうちの一つだろう。無限の猿定理が正しいならいつかは猫が国語辞典を書き上げてくれるだろうが、いかんせんそれを待つには締め切りが近すぎる。もしムギに労働意欲があるのなら、代わりに宅配便の受け取りとか公共料金の支払いとか、そういう細々とした仕事をしてもらいたい。給料(ちゅーる)は弾もう。


 電気ケトルがけたたましい鳴き声を上げ始める。私はそれを確認するとマグカップの中で自分の出番を待つインスタントコーヒーの粉末に熱湯を注いだ。途端に甘やかな香りが立ち上る。


 シンク下の収納からシュガーポットを取りだし、スプーンを突っ込んで砂糖を二、三杯掬い上げる。そのままそれをマドラー代わりにしてコーヒーへ溶かした。

 一口だけ啜ってから、仕事場であるパソコンの元へ戻る。


「ムギー、ちょっと邪魔だからそこどいてー」


 パソコンの前まで行くと、ムギが何やら真剣な表情でモニターを眺めていた。


 小さくもふっとした前足はどちらもキーボードに置かれており、お座りの姿勢を崩す気配はない。時折パチリ、パチリと小さな打鍵音が響いた。


 はあ、仕方ない。バックアップは取ってあるし気が済むまで遊ばせてやろう。


 仕事の再開は怪文書の削除からだな、と覚悟を決めつつ、私はしばらくコーヒーを啜っていることにした。






「…………ンャオ。……ンニョォォ」

「――ッ!」


 ムギの鳴き声で意識が戻ってきた。急いで時計を確認すると、三十分も経ってしまっていた。


 ほんのちょっとだけボーッとして休憩するつもりだったのに。いかん、このままでは会社に泊まり込みで仕事をしなければならないという最悪の事態に突入しかねない。なんとしても今晩のうちに少しでも進めておかなければ。


 頬を一度パチンと叩いてから、パソコンの画面に向き直る。


「……あ、いけない」


 そういえばさっきまでムギに遊ばせてたんだっけ。まずは元の状態に戻さないと……。


「……ん?」


 そう思って画面を覗くと、何やら様子がおかしい。


 本来そこにあるはずの怪文書が見当たらないのだ。代わりに広がるのはごく一般的な日本語の文章。しかも文章の体裁が妙に整っている。


 いつのまにこんなの書いたんだっけ、私……。


 じっと画面に目を凝らす。


「えーっと……あれ、この言葉って私の担当だったっけ……」


 画面に表示されていたのは、私がそれまでに書いていたのと同様、単語の意味解説だった。しかし説明されている単語や、その解説文はどうにも身に覚えのないものばかりだった。


『仕事【し-ごと】

 一、人間が収入や生きがいなどを求めて行う、生産的な活動。しかし、多くの場合は受動的かつ非生産的であり、大多数の人間はそれに従事することを忌み嫌っている。

 「――に行きたくない」「生まれ変わったら飯を食って寝るだけの――に就きたい」「それは――ではない。猫だ」』


 なんだこの解説文は……。やたらエッジが効いているな……。


『二、人間が自分の望んだ人生を歩まないことに対する言い訳。

 「ごめん、その日――なんだ」「――がなければ遊んで暮らせるのに」』


 鋭く突き刺すような文言に、思わずこちらの心が痛くなる。


 しかしますます不思議だ。こんな犯罪的な文章、書いた記憶が無いのだ。この解説文で辞書なぞ作られようものなら、それはもう読者諸氏に対する無差別テロ行為。いくら疲れていたとはいえ、ここまでのものを自分で書いたとは思えない。


 とすると考えられるのは――。


「……ンニョラォン」

「……もしかしてコレ、ムギが書いてくれたの……?」

「ンミョー」


 まさかと思いつつ問いかけてみると、そうだと言わんばかりにムギは誇らしげにひげを伸ばした。


 引いたというのか、微小な確率を。無限の猫がここに収束したというのか。


 ごくりと唾を呑みこみ、私はワープロのページをスクロールする。


『人間【にん-げん】

 一、餌をくれる存在。猫よりは下位に属する。やたらと撫でてくるくせにおやつの配給を渋る傾向が見られる。


 二、転じてケチなもののたとえ。

 「あいつとマタタビ五グラムで取引したんだ」「気をつけろ、あいつは――だぜ」』


 解説文がやたら猫に寄りすぎてないか、これ。というかムギ、まさかそんな怪しげな取引に手出してないだろうな。


『猫【ねこ】

 一、世界で最も自由な存在。人間よりは上位。人間を下僕とすることにより悠々自適な生活を実現している。人間にベタベタされることを最も嫌うが、ずっと無関心でいられることも腹立たしい。


 二、転じて世を統べる者の意。


 ―に小判【―にこばん】

   価値がわからないものに立派なものの所有権を握らせること。


 類語

 人に鮪【ひと-に-まぐろ】

 人にちゅーる【ひと-に-ちゅーる】』


 ムギ、ちょっと私情が出過ぎじゃない? あと人間のこと下僕だと思ってたのね。人間、かなりショックです。


 しかし、なかなか上手に書くものである。


 単なる偶然にしては無理があるし、もしかしてうちのムギちゃんは天才なのかもしれない。人類とは違う目線で言葉の意味を捉えているのもなかなか面白いし、このままムギに色々書いてもらって出版したら結構売れそうだ。


 ところがムギ特製国語辞典は次の項で終わっていた。


『幸せ【しあわ-せ】

 一、猫にとってはご飯、昼寝、おやつなど。特に鮪やちゅーるを意味する場合が多い。極まれに、飼い主の人間のことを指す場合も有る。極極極極まれに、だ。


 二、人間にとっては――――――――――――????????』






「ンニョョォォォォ!」

「ッ――!」


 ムギのけたたましい鳴き声で目を覚ますと、カーテンからは薄く朝日が差し込んでいた。


「……うわ、サイアク」


 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。腕には赤く跡が残りキーボードはよだれでベトベトだ。時計を確認すると重苦しい後悔が襲ってきた。


「ムニォォ! フゥ――――ッ!」


 洋服の裾をカジカジしながらムギが朝食を催促している。はいはい、わかったわかった。


 ムギの朝ご飯を用意する前に、僅かな期待を込めてパソコンの画面を確認してみる。


「やっぱ夢、だよな……」


 だがムギ特製国語辞典など出来上がっているはずもなく、代わりに残されていたのはムギ特製怪文書。ため息が漏れる。


 ……って、何期待してんだか。そもそも猫がランダムにキーを打ったって、意味のある言葉の一つだって完成しやしないだろう。あんな流暢な文章を猫が書き上げたなんて少しでも想像した自分が恥ずかしくなる。


「はーい、じゃご飯用意するからちょっと待ってねー」

「ニョォ」


 立ち上がり、頬をピシャリと叩き気持ちを切り替える。下僕として猫様の機嫌を損ねるわけにはいくまい。


 餌を取りに行く私の後ろにムギが続く。


 あとに残されたパソコンはそのディスプレイを煌々とさせながら、熱い息を吐きだし続けていた。




『いうsfjんびうrrをjmをんぶおrんをいうぇjrぼおいrhjぷwjfpぼうbrwpjびえおfbヴぃうべぼwbvbりうbヴぉplpbbjぢkぢんsdklsdpzqtrjs                がんばれ』

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