第184話 ブラックスター 後-2
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なにもかもが上手くいかないとき、どうやって気分を入れ替えればいいかわからない。
エリザベートは屋根づたいを歩きながら、そう考えた。
この時エリザベートは、屋根の中心にいた。丁度マリア・ペローが彼女の姿を認めたときで、ジュスティーヌ・デ・マルカイツとクリスタル・デ・マルカイツの二人が屋敷の正面に来た時のことだった。
下で起きていること、他の場所で起きているごたごたを、エリザベートは知らない。ギルダー・グライドの死を呼び込んだものも、ジュスティーヌが得た喪失感も、エリザベートとは今、関わりのないことだ。
屋根の上は、屋敷から出た煙によって、外と内とを明確に分けている。煙のカーテンが薄く屋根を囲い、エリザベートから見えるのは、遂に屋根のスレートに足場を得て、全身を露わにしたマンティスだけだった。
これは暗喩のようなものかもしれない。エリザベートは焦りを顔に出しながらも、どこかでさざ波のように心を平静に保ったまま、そう考えた。
エリザベートは自分のカルマと向き合うべきだと、誰かが言っているのかもしれない。遡行前から、また遡行後も自分のやってきたこと全てが、自分に審判を下そうとしているのかもしれない。
あるいは、どこにも逃げ場がないことに対する諦観や絶望が、エリザベートの頭に馬鹿馬鹿しい閃きを与えているのかもしれない。
どちらなのかはわからない。だって世界で二人きりだと思っている今も、エリザベートが知らないだけで、マリアやジュスティーヌが彼女の姿を見て、失っていないものを失わないように、この状況をなんとかしたいと思っているからだ。その一方で、エリザベートもマンティスも、そして外にある何がしかも、お互いに手の届かない場所にいた。ただ比喩としてであれば、世界でふたりきりだというのも間違ってはいない。
(マリアはバリスタを屋根の上に向かって構えている。ジュスティーヌとクリスタルは、なにか柔らかいものを探している)
マンティスが屋根の上を歩き、エリザベートから数メートル離れた場所で停止した。その場から一歩も動かず、直立不動のエリザベートを、よく観察する。
そして、脚を屋根のあちこちに置くと、古代遺跡でローブを被っていたとき以来はじめて、地面に二本の――つまり人間としての足をつけた。
「……どうして逃げない?」
マンティスが言う。彼女は罠を疑っている。罠を疑っているから、すぐエリザベートに襲い掛からない。
「……逃げ方がわからない」
エリザベートは本心から素直にそういったはずなのに、そこに含意があるように思えてならなかった。
ああ、バカバカしい。含意なんてあるはずないのだ。この状況は、いろいろな誰かの思惑が連鎖して重なったことで起きたもので、そこに暗喩なんてものは一つたりともない。でもそれならエリザベートが感じ取ったものは何だ? 生きたいという気持ちに嘘はない。死にたくないという気持ちにも嘘はない。その二つが相反することはあるが、エリザベートの中でそれは起こっていないのである。
恐らくそれはわだかまりや、善意や、臆病さや、アイリーンが言う”やさしさ”なのだ。そしてここまで来たこと自体。フェリックス王の提案を蹴って、命の危険をおかし、それにマリアやコンスタンスを巻き込んでまで手にしたかったプライドや、赦しを求める心なのだ。
エリザベートにはそれが十分わかっているはずだ。都合のいいことなんて起こらないし、起こったとしても神が私を愛してくれているわけではないということに。
「逃げる気がないっていうのか? お前は死ぬつもりなのか?」
エリザベートが動かないのをいいことにマンティスはエリザベートに脚を突き立てようとした。だが屋根のうえにつけていた脚のバランスが崩れたことで脚の一本が屋根を突き破り、その切っ先はエリザベートの頬を掠るに留まった。
「うっ……クソ……」
マンティスはバランスを失いかけていた。屋敷がマンティスの重みに耐えきれず、彼女は雁字搦めになっていた。
それを見てエリザベートは、自分の考えが間違っていたことに気が付いた。これは赦しを得る機会などではないし、ここで自分が死んでみせたことで、自分の名前についた醜聞を拭き取ることなどできないのだ。
復讐を望むものに自分を殺させて、それが自分を天国に導くなんていうのは、夢物語にもなっていない。単なる独善的な思考だ。
「やめたほうがいいよ。もう、そういうの」
エリザベートが言った。
「意味ないじゃん、それさ。あんたが私を殺したところで誰も帰ってこないし、あんたが誰かを守れなかったことには変わりないし、あんたが誰かを失ったことも変わりないし」
「なにを、わかったような口を……」
「わかるんだよ……私には……」
マンティスが体を動かしてその場から逃れようとするが、動こうとすればするほど、屋敷の屋根は壊れていくようだった。
マンティスは無駄に動くのをやめ、脚の一本に集中し、エリザベートを殺害できると確信するまで、その一本に細かな修正をすることにした。
「いい加減、疲れるんだよ。人の恨みを買うのも、人を恨むのも。ずっとやってきたから、知ってる。それでみんな傷つけて、私も嫌な気分になって、関わってる全員が損するんだよ。なんかそうなってるみたいなんだよ」
エリザベートは涙が自然と溢れてくるのを感じた。マンティスに背を向け、屋敷の端を目的地にして歩き出す。
「ああ、何個のランタンを壊したっけ。それで何枚の窓ガラスを割ったっけ。どれぐらいのドレスを汚して、どれぐらいの人たちの顔をひっ叩いてやったっけ。憶えてないけど、みんな私を赦しちゃくれないし、だったら私は、死んでやったりしないんだ」
エリザベートは清々しい心持で、夜空を見上げた。空の星は見えなかったし、月は半端な欠けようで、なんだかくすんでいる。でも眼を背けたいほどじゃない。エリザベートは、知っていて飛び降りた。下にいる誰かがエリザベートを助けようとしてくれていることを。その誰かが、きっとエリザベートを助けてくれるってことを。
それは正しかった。エリザベートが飛び降りたのは屋敷の正門で、そこにはジュスティーヌとクリスタルが、使っていない植え込みにかぶせてあったシートを広げて、彼女を待ち構えていた。マンティスの怨念を込めた最後の一撃は、マリアが放ったバリスタの矢によって呆気なく防がれ、そしてマンティス自身は、屋敷の中に消えた。
エリザベートがシートの上に落下すると、マリアはバリスタから飛び降りて、彼女に駆け寄った。ジュスティーヌとクリスタルは、シートの薄さや非力のためにエリザベートを抱えきれなかったが、彼女の命を助けられないほどではなかった。
衝撃はやわらげられたもののエリザベートはひどい痛みを全身に感じている。立てないぐらいの痛みだ。マリアとジュスティーヌとクリスタルが、エリザベートを見下ろす。バリスタのついた荷車で、パースペクティブにと一緒にいたコンスタンスも、記憶を失った状態でエリザベートに近寄った。(パースペクティブは屋敷の壁際に、マリアやギルダー・グライドと一緒に落ちてきていたグザヴィエを見つけて、彼の治療に向かっていた。彼は無事だったが、気絶していた)
「いたい。いったい。ほんとにいたい」
痛みからか、または別の理由からか、エリザベートはそうわめきながら涙を拭い、シートに横たわったまま、彼らの顔を見上げていた。
(生きていていいかな。いいよね? だから助けてくれたんだよね?)
エリザベートは心の中でそう問いかけた。
屋敷の火はずっと燃えていた。火がなにかを消し去ってくれることはなかった。火は火で、ただ燃えるものを燃やしているに過ぎない。誰かの罪なんてものを燃やすことはできない。だからエリザベートの罪は浄化されず、彼女の中にずっと残されている。それが正常な姿だ。だから安心してエリザベートはそれを胸に抱き、ゆっくりと、誰もいなくならないことを祈りながら、その両目を閉じ、そして――想像した。
「生きていていいよ」
誰かがそう言ってくれることを。
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