第126話 ダウンレンジ 後-1 (エリザベート・デ・マルカイツ)
背後で起こった爆発音に気を取られている暇はなかった。オクタコロンはわざとか、出力を見誤っているのか、あちこち壁にぶつかりながらエリザベートに迫った。エリザベートはスカートを持ち上げ、必死になって走っている。
冷静なのかなんなのか、以前、馬車での行楽の最中にマリアが語っていた、逃げるときの走り方についての講義が頭の中に残っていた。
マリアは国境警備をしていたとき、野盗から逃げたことがあったらしい。不運にも武器はなく、数も向こうが多かったのだ。
逃げるときの鉄則はいかに早くそれを達成できるかです。じぐざぐに走るのも悪くない手ですが、そればっかりに気を取られて同じ場所でゆらゆら揺れるだけになったり、無駄に長い距離を走る羽目になって体力を失わないようにしないといけません。確かにまっすぐ走るだけでは不安でしょうが。障害物が複数あるなら、障害物ごとに全力で走るのがいいかもしれないですね。平地なら斜めに走ればまず当たりません。あとは人混みとか森とかに逃げ込めばいい。
ふうん。とエリザベートは返した。
まあ、これは言った通り開いてるときの話ですが。
マリアが言う。
近い時は?
エリザベートが問う。
文字通り追いかけっこになってるときはどうするの?
エリザベートの問いにマリアは待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
そっちの方が簡単です。相手が追ってこなくなるまで走るだけですから。あれこれ考えなくてもいい。単純でしょう。
マリアの言葉に、エリザベートは呆れた声で返した。好きね、そういう話。とでも言ったかもしれない。
あの時はなんの参考にもならないと断したが、今となってみると、マリアの言った意味は、思ったよりも重要だとわかる。この追いかけっこのなかで、次の展開を考える余裕などない。マリアは”考えなくてもいい”と言ったが、あれは正しくは”考えてはいけない”という意味なのだ。余計な考えに囚われて、速度を緩めたり、路に転がっている石かなにかに躓けば、一巻の終わり。一巻の終わりなんてことも考えてはいけない。どれだけ早く走れるかだけ気にして走るべきなのだ。
そうなると、エリザベートはかなり早かった。オクタコロンの攻撃をすんでのところで躱し、代わりに穴を穿たれた壁から飛び散った破片が頬に小さな傷をつくっても、まだ走っていられた。
ここ最近で一番、迷いのない瞬間だったかもしれない。エリザベートは廊下を走り切り、階段を降りた。
▽
オクタコロンはエリザベートの走りを見て、こう思った。
”こいつまさか、逃げ切れるなんて思ってないよな。”
それもそのはず、オクタコロンはまったく本気など出していない。オクタコロンはエリザベートを追いかけまわし、恐怖を味合わせたかった。辛気臭い頭のなかにしばらくいたせいでストレスが溜まっているのだ。
エリザベートにだってそれはわかっているはずだ。オクタコロンはそう考えている。メアリー・レストを出し抜いたのだから。自分を走って捕まえるぐらい造作もないことなのだと。
だが、この走りぶりはどうだろう? スカートを手でたくし上げ、靴が汚れるのも構わず廊下を走り抜けたその姿は、あたかも走った先に希望を見出しているかのようだ。
気に入らない、とオクタコロンは思った。エリザベートが惨めったらしく怯えてくれるのでもなければ、こんな風に追い掛け回す意味もない。
さっさと終わらせてやろうか。オクタコロンは足の一本を後ろに引き、狙いを定めた。
そのままエリザベートの背中を貫こうとする。視界の端に現れた人影を見て、やめた。
にやりと笑いを浮かべる。
▽
エリザベートは走り続けていた。校舎の外に出て、どこに行けばいいのかもわからなかったが、とにかく走るしかないと思った。マリアの言葉がなくとも戦えない以上、それ以外にはないのだ。
メアリー・レストはまだ時間を停止させ続けていた。外と同様、学院も襲撃にあっており、時間が止まっていなければ、ここは血の海になっていただろう。突然のことで着替えもままならなかったのか、剣だけで下は寝間着という姿のものもいた。
ひっ、とエリザベートは息をのんだ。顔面から剣を生やした騎士を目の前に見たからだった。戦いの決着がつき、地面に伏している死体をまたぎ、エリザベートはまた走り出した。
エリザベートが出たのは、校舎の正面ではなかった。廊下を置くまで突き進み、階段を下りたため、学生寮のある砂利道ではなく、他の建物へと続くプロムナードのほうに出ていた。
エリザベートはより広い方へ行こうと考えた。学生寮のほうへだ。植木の間を潜り抜け、砂利を踏みしめる。
「お嬢さま!」
エリザベートは驚いて一瞬、足を止めそうになった。それが他でもないマリアの声でなければ、止まってしまっていただろう。”そうだ。アミュレット! マリアはこの空間でも動けるんだ。”エリザベートの脳裏に文字が流れた。
マリアが武器をしまって手を伸ばす。いつの間にか、背後からオクタコロンが追ってくる音が無くなっている。背後には誰もいないのかもしれない。
マリア。
エリザベートはそう言いかける。言いかけて、口を閉ざした。急に視界が歪んだかと思うと、自分の声がこう言った。
(ほんとに信用できる? 裏切られたんだよ? 何度も、何度も。クレア・ハーストと同じだよ。こいつも。手なんか伸ばしちゃってさ。きっと私が手を伸ばしたら、こいつは突き飛ばすよ。で、串刺しだ。)
そんなはずはない。エリザベートは自分に言い聞かせた。けれど、もう遅かった。伸ばしかけた手をびくり、と痙攣させ、エリザベートはぎゅっと胸の前で握ってしまった。
マリアが眼を見開いた。そして、手を伸ばしたときよりも素早く、残酷な動きでエリザベートを押しのけた。一瞬、裏切られたかと思ってしまう。まったく違った。絶望するほどの後悔が襲ってきた。
尻もちをついて倒れるエリザベートの上で、マリアの身体に太く長い脚が突き刺さっていた。
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