第123話 ダウンレンジ 前‐2

「そんなことは不可能だ」


 ”君を殺すことが目的だ”。そう言ったオクタコロンに対して、メアリー・レストはそう言った。


「時間を超越しているものが”実時間”(遡行や干渉によって変化する前のオリジナルの時間のこと)に過剰な影響を与えればすぐにやつらに修正される。殺したということはなかったことになるだろう」


「でもそれは君だってやろうとしてる。違うか?」


 オクタコロンの発言でエリザベートははっと気が付いた。この珍妙な化け物はかなり危険だし、その言葉の9割9分は信じるに値しないだろう。だが、確かにさっきの話が本当なら、メアリー・レスト――ああ、やはりこの名前はまだエリザベートには馴染まない。彼女にとってこの魔術師はまだ”手紙の魔術師”だ――がやろうとしていることは、まさしく時間の流れに影響を与えるのではないか。


「その通りだ。エリザベート・デ・マルカイツ。そしてそれこそが答えなんだよ。”メアリー”」オクタコロンが彼女の名前を括弧つきで呼ぶ。エリザベートの感覚に合わせたかのように。「確かに時間を超越している存在が過去に干渉しすぎれば”修正”がなされるんだろう。だが君のような存在が逸脱しない程度に干渉して、結果としてそれが大きな波を生んだとしても、それは修正されない。その時間に生きているものがやることに干渉できないからだ」


「でも……それじゃあ、矛盾している」”メアリー”が言う。「お前は時間を超越している。僕が”遡行”させたエリザベートは僕が見つけた大きな出来事に対して無視されうる因子だ。彼女が知りえること、やりえることの範囲は広い。だがお前はこの時代の人間じゃない……そもそも人間なのか?」


「そこが間違っているんだよ。ほら、よく言うだろう。”最後に残った事実はどれだけ信じがたかろうと事実”なんだ」


 空気がぴりつく。”メアリー”はどうしてだかオクタコロンではなくエリザベートのほうを凝視している。オクタコロンはエリザベートに背中を向いているが、エリザベートは”あれ”が自分を捕捉し続けていることを肌身に感じていた。


「……そうか。お前は……」


 ”メアリー”が苦渋を顔に浮かべる。


「あはは」オクタコロンが乾いた笑いを飛ばした。「いずれにせよ”あと一回”だ。エリザベート・デ・マルカイツが死ねるのは一度だけ。お前には止められない」


「エリザベート」”メアリー”はエリザベートに声をかける。その間にもオクタコロンは変態していっている。めきめきと全身が音を立て、小さなぼろ布が肥大化し、ただでさえ長い腕が、体の成長とともに更に長く、太くなっていく。


「こいつは……」


 エリザベートはその姿が見覚えのあるものになっていくことに気が付いた。”見覚えのあるもの”というのは、あのメウネケスの地下遺跡で見た”予言の民”の怪物。マリアでも正面からは戦おうとしたのは、最後の追い詰められた瞬間だけだった。


 確か名前は……マンティス。ただ、あれは一目見れば機械仕掛けだとわかった。オクタコロンの変態した姿はもっと生物的で……艶めかしい。


 オクタコロン。その名の通り、八本脚か。蜘蛛と形容したのは間違いじゃなかった。


 オクタコロンは今や明らかに、人に害をなす化け物になっていた。エリザベートの三倍はあろうかという巨大さで、彼女を見下ろす。


「エリザベート!」


 ”メアリー”が叫ぶ。


「なにをしてるんだ! 早く逃げろ!」


 ”メアリー”は苛々していた。なぜだかそれがエリザベートの心に強い傷を与えた。


 ”メアリー”が言うや否や、オクタコロンがエリザベートに襲い掛かる。タイミングはぎりぎりだった。オクタコロンの足が届く寸前に、エリザベートが先ほど放った蛍が強烈な光と共に破裂し、オクタコロンを足止めした。エリザベートは蹴躓きそうになりながらも化学実験室から脱出した。


 化学実験室の外には、”メアリー”の時間停止によって固まったクレア・ハーストがいた。エリザベートは困惑して、逃げの体勢をとりながらも、彫像のようなクレア・ハーストから視線を離せない。


(なんなんだよ?)


 ここまでのこと全部が、エリザベートの理解を越えている。


? エグザミンは私に夢判断でもやらせようとしているのか? あったこと全部が夢幻で、ほんとうはずっとあの階段のうえを浮遊して? 落ちようとしてるんじゃないか?)


「そうかもしれない。私が殺せば君は、我に返るのかもしれない。どうだろう?」


 ”エグザミン”が言う。いいや、違う。エグザミンの皮を被ったオクタコロンだ。間違えてはいけない。


 背後から迫った腕をエリザベートは転ぶようにして避けた。クレア・ハーストを巻き込み、彼女はその場に倒れ込んだ。


(この子は何故ここにいる? 私を恨んでいる? 死んでほしい? どうなんだ?)


 エリザベートは立ち上がり、浮かんでくる疑問に頭を支配されながらも、迫るオクタコロンから逃げた。足だけはやるべきことを忘れなかった。

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