第121話 知っての通り世界の終わり(and I feel fire) 後

 メアリー・レストは反応を待った。その言葉を聞いたエリザベートは、見たこともないような複雑な表情をしていた。あらゆる負の感情が顔の表面に浮き上がり、彼女の理性を占める場を巡って争い殺し合っている。だが勝つのは怒りだ。結局のところ。


 彼女はなにかを言おうとして、息をのんだ。しかし適切な文句が思い浮かばず、口から出てきたのは喉を絞って出したような音だった。メアリーに怒りをぶつけても仕方ないのはわかっている。だからといってこの煮えたぎるような怒りとうまくやっていけるほどエリザベートは理性で生きていない。


 誰かを殴る前のような叫び声をあげて、彼女はびんを横に投げた。びんは空中をまい、化学実験室の机のひとつにぶつかって飛散した。かけらは放射状の広がりを見せながらその場にとどまり、中に入っていた蛍は無傷で無数の硝子に包まれるようにしていた。


 メアリーは一連の出来事をすべて見送ったあと、髪のなかに手を突っ込んでぎりぎりと締め上げるエリザベートへ声をかけた。


「それもわかっていたんだろう。どうして今さらそんなに怒ることがあるんだ」


 エリザベートは髪のあいだからメアリーを睨みつけた。


「うるさいな! わかっているようなことと実際にそれが目の前に現れるんじゃ全然違うんだよ!」


 そうだ。わかっているはずだ。エリザベートは頭皮に爪を立てながら思った。”私は物事の中心人物ではないし、そうだったこともない。そうであるに値するものがないのだから。「クソッ! 馬鹿げてる。馬鹿げてる。馬鹿げている……! 私は王の指の娘で王子の婚約者。それ以上に特別なものなんてない! 違う……そんなこと考えてるんじゃない……ああ、もう!」


「どうかしたか? 左目が痛むのか?」


「ええ? なに」


 エリザベートは左目を抑えていた。奥からなにかが付きだしてくるような内側からの圧力がかかっているように感ぜられた。


 メアリーは、いたたまれなくなったか、それともただエリザベートの動揺を鎮めるためか、眼を閉じて瞼の上からぐりぐりと眼球を押し、こう言った。


「言っておくと、それだけじゃあ、ない。ちゃんとお前である意味もある」


 メアリーは慎重に、言葉を選んで口にしている。


「クーデターが起こると言っただろう。これによってアイリーンやシャルル王子に重大な危害が加わることになる。彼女たちはクーデターを防ぐことができなかった。その理由の一つが、君の妹のジュスティーヌだ。あのとき、ジュスティーヌがもっと早く動いていればああはならなかった。アイリーンとジュスティーヌが疎遠になった理由こそ、君の死だった。もっとも簡単で、もっとも揺らぎが少ない。君の死を避けることがそれだった」


 エリザベートは全く、メアリーの話を聞いちゃいなかった。なかには彼女の興味を惹くような話もあっただろうに。その余裕がまったくなかったのである。いくら声をかけても話を聞いてくれない相手にそれ以上、どう声をかけてよいやら。アイリーンの背中に隠れて学院ですごしてきたメアリーには、難しい問題である。


 だが、それでもエリザベートが現実へ立ち返る瞬間というものも、やってくる。


 むかつくが、今はむかついてさえいればいいわけじゃない。(そんな瞬間があろうはずもないが)。相変わらず左目がじくじくと痛むものの、少しはマシになっている。不思議なことに左目の痛みが収まるごとに、エリザベートの精神も安定していっていた。メアリーはこれを見計らい、エリザベートの顔を覗いた。


「もういいか? お前にはやってもらいたいことがあるんだ」


「……なに」


「アイリーンを助けてやって欲しい」


「はい?」


「アイリーンたちは今、危機的状況にいる。それを救えるのはお前だけだ。それは――――――」


(ん?)


 急に、メアリーの声がまったく聞こえなくなった。彼女の姿がどんどん後ろに下がっていく。


 その時突然、エリザベートの身体から意識が遠のいた。正確には意識を保ったまま、人格のスポットライトを奪われたかのような感覚だった。


 今この瞬間に話しているのは、自分ではない。


――」エリザベートの口が動く。「?」


「どういう意味だ?」


 


 答えるな。答えるなこのバカ! エリザベートの声も届かない。


「気づいていたか……。そうだな。奴らに見つからないようにやれるのは、。実際のところ、それが今回、お前に見つかってやった理由でもある。リスクを冒さなければならないと思ったんだ」


「そう。一回だけなんだ」


 エリザベートの口を借りてエグザミンが言った。そして意識の主導権が再びエリザベートに戻ったかと思いきや、左目が再び強烈に痛み出す。


「どうした? 大丈夫か?」


 メアリーはまだ気づいていない。このポンコツ魔術師が。エリザベートは左目を抑えながら、内心で毒づいた。


(君の中はなかなか住み心地良かったけど)頭の中で声がする。(そろそろ自由にさせてもらうよん)


「ああ! ああ! ああッ!」


 エリザベートの眼から腕が飛び出てくる。とても長い腕だった。腕は化学実験室の机を掴むと、それをアンカーにして自分の体を引っ張った。メアリーもようやく異変に気が付いたようだが、遅すぎる。長い腕からぼろ布をまとった小柄な体が現れ、そして、ずるりと、ニスがよく塗られた床に向けてなにかが落下する。

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