第3話 時間の巻き戻り
エリザベートはクレアの腕を掴んで離さなかった。それは、彼女に傷を負わせるほどではないが、その目的としてもおかしくはない敵意を孕んでいる。
「だから、なんでこんなところにいるって言うのよ。一年も前にクビにしたはずでしょ!」
「私は、クビにはなっていません。今もお屋敷で奉公させていただいております」
エリザベートは、元気がゼロになるのと、それがほんの少し回復するたびに使い切るのを繰り返していた。
どう主張してみようと、このメードが自分の家に入っている事実は変わらない。それがなぜなのか考えるほうが有意義ではある。エリザベートは、短絡的な思考を頭の中で何度も行う。例えば、自分が運ばれた先はマルカイツ邸ではなくダルタニャンの王都邸(領地内の家名を冠した本邸にたいし王国の首都内にある別邸を指す)であるということ。いや、これは違う。部屋の作りは自分のものだ。かかっている服も季節は違えど見覚えのあるものばかりだった。なにより、ダルタニャンの王都邸はマルカイツ邸とは比べ物にならないほどおんぼろなのだ。これに無理があるのは頭の回らない状態のエリザベートにも分かる。
あとは、あとはなんだろう? 荒唐無稽な話しか思いつかなかった。クレア・ハーストとはいい思い出があまりなかった。
自分の意思がありますと言いたげな態度が気に食わない。エリザベートにとって使用人は使用人以上の意味は持たない。時たま、なにかの才能を発揮するものはいるが、多くは自分たち貴族に物怖じしているだけの連中だ。こちらへのリスペクトもなく、むしろ働く家の家名ばかりを誇りにしている。
使用人と仲良くしようとするもの――それは例えば、アイリーン・ダルタニャンを筆頭に、多くの貴族がそうしようと努めているふしがある。あるものはそれを、ノブレス・オブリージュ、持つ者の責務だとうそぶくが、エリザベートはそれを信じていない。むしろ欺瞞ばかり感じるのである。
クレア・ハーストは間違いや過ちには敏感だった。そのくせ、直接口には出さない。じっとこちらを戒めるように見るのでもない。だが、わかるのだ――この娘は、自分のことを見ているのだと。
忘れてはいけない。過去は語ることしかできない。エリザベートがクレア・ハーストを解雇したのは、あれは、中等部の終わりのことだった。クレアはエリザベートの御付きのメードとしてパーティについて来ていた。中等部の卒業前に、学院が主催する催しもあったけれど、その前に女子だけでやっていこうと――確か、アナ・デ・ランスリン・アルバート・スタインフェルト伯爵令嬢が主催したパーティだった。彼女の地元から取り寄せたしぶみのないぶどうジュースと、青色の若いぶどうのタルト、それから素晴らしい演奏をするオルガニストがいた。
エリザベートは催しを楽しんでいた。クレアを放置して、友人たちと下世話な話で盛り上がった覚えがある。そのうちに、話は醜い年上の婚約者を貰った令嬢の噂になったのだ。
内容自体は他愛もない。家が貧乏で貰い手がいなかっただとか、醜い男の慰み者になるのも面白いし、逆に愛し合うのでも面白い、だとかそんなような話である。
そんな話ぐらい、公ではない催しでは当たり前に話されている事柄だ。
問題は、ちょうど、背後に件の令嬢が通ったことで、彼女がエリザベートたちに突っかかってきたことだった。
棘のある声で名前を呼ばれたエリザベートはぶどうジュースを持ったまま振り返り――果汁が令嬢のドレスに飛んだ。
これで、争いは激化した。令嬢は謝罪を要求し、エリザベートはそこを頑として譲らなかった。
「弁償すればいいんでしょう。いくらなの」
「そういう問題ではないです! これは彼から頂いた品で――」
エリザベートは苛々していた。シャルル王子とも距離を置かれている時期だった。ストレス発散に来た場で、よもやこのようなストレッサーに会うとは思ってもみなかった。
じりじりと頭の細胞が焼けていくのを感じ、エリザベートは自分の手がかたかたと震えていることにも気づいた。そしてぶどうジュースをすべて、その令嬢に浴びせかけると、言った。
「これで捨てる決心はついたでしょ。そら、帰って新しいおべべを着るのがいいわ」
言い放ったが、ストレスは一向に消えなかった。
どこからか視線を感じて見てみると、クレアが庭園にいるのが見えた。視線は彼女ではない。アナ・デ・スタインフェルト伯爵令嬢のものだ。エリザベートはばつの悪い思いをし、クレアを放ってさっさとその場から立ち去ろうとした。その気になれば歩いて帰ることも出来る筈だと見当をつけて。
しかし、スタインフェルト邸の庭園の出口にさしかかるころ、背後にはクレア・ハーストの姿があった。
「なにか言いたいことでもあるわけ」
「いいえ。お帰りのようでしたので、私も。ついてまいります」
「言いたいことがあるんでしょう。言ってみなさい」
「いいえ。なにも御座いません」
馬車の見えてきたところで、エリザベートはクレアを振り返った。急に立ち止まった麦色の髪が揺れ、下で青い瞳がこちらを見つめていた。意味はない、とでも言うかのように。
「言いなさい。悪くはしないわ」
クレアはなにかを言いかけた。胸元をささえる布地が上下に動き、首は正面から下へ、そして前へと動いた。
ハッ、と息づかいまでした。しかし、それ以上になにかをするわけではなかった。エリザベートをはっきりと見上げることを除けば。
「……何様よ」
エリザベートは独り言ちるようにして言った。なにも言わなかったが、クレアがエリザベートを咎めて、あまつさえ人として見下しているのだとエリザベートは考えた。
「何様よ! あんたは!」
「……申し訳ございません」
クレアは俯いてそう言った。
苦々しい記憶。エリザベートは帰宅後、クレアを解雇するよう父親にかけあった。そして翌日には、クレアの姿はなくなっていた。そして、一年後、あのアイリーンのもとでクレアがメードとして奉公しているのを見かけたのだ。
断罪の場にも彼女はいた。クレアはエリザベートを逃がさんとする人々のなかで、アイリーンを気遣うように近くに立っていた。
そういうわけで、エリザベートの元にクレアがいるはずがないのだ。
「とにかく、あんたに触られたくなんかない! 近くにいて欲しくもない! どっか行ってよ!」
「そういうわけには……人を呼んできますから……それで……」
「うるさい!」
エリザベートはぴしゃりとクレアの頬を打った。そして、床にへたりこむ彼女をしり目に、部屋の外へ駆けだした。
「なんなの! いったいなんなの! お母さま! お父さま!」
エリザベートは混乱して屋敷中を走り回った。熱がどんどん強くなっているのを感じた。
そしてその中で、どこからか現れた冷静さが彼女の中に思考をもう一つ作り出し、それが今を判断しなおした。
「おかしい……なにかおかしい……こんなに寒い。身体が熱い……。あのメードはなぜいる? 冬服も……」
エリザベートが騒いだおかげか、屋敷がにわかに騒がしくなった。大広間まで来たところで、彼女は別のメードと鉢合わせをした。こちらはずっと前からいる人物で、現在もマルカイツ邸で働いているはずだ。その背後を歩く母親の姿を見たエリザベートは、彼女に縋りついた。
「お母さま! なにかおかしいの! シャルルに婚約破棄をされて! あの女のせいで! 階段から落ちて! 起きてからずっとおかしい!」
「落ち着きなさいエリザベート。どうしたっていうの、そんなに取り乱したりして。熱がまだ落ち着いていないのではないの」
「クリスタル様! 申し訳ありません! お嬢さまは――」
「黙れ!」
エリザベートが自分を追ってきたクレアを怒鳴りつける。
大広間に人が集まっていた。屋敷主の娘の醜態を見に来たもの、自分に怒りが向けられないか戦々恐々としているもの、二階の書斎にいたと思われる父、戸惑っている母と、戸惑っている妹。
エリザベートはその場にうずくまる。飛び出そうなほど熱を持った瞳を瞼の上から抑えつけ、唸り声をあげる。
エリザベートは熱に浮かされていたが、頭が悪いわけではない。
狂乱の中にいながらも、エリザベートはいくつもの違和感を思い出していた。結婚してやめたはずのやつがいる、妹がやけに幼い、みんな冬服を着ている。そして、自分は自分の考える”現在”から一年半前、ひどい熱を出した。三日三晩苦しみ、その間に見舞いへシャルル王子がやってきた。国で一番の医者と占星術師が呼ばれ彼女を診た。治ったと思われる翌日に、なぜかもう一度熱がやってきて、一人で魘されていた。
しかしエリザベートはその考えを振り払った。ある意味で常識的で、また振り回されることを嫌う彼女の頑固さがそうさせる。時間が戻っているなどと考えることはできそうにない。
「お嬢さま」
クレアがエリザベートに駆け寄ろうとする。
「黙ってて! あんたがいるとおかしくなるんだよ!」
「エリザベート!」
クリスタルが娘を𠮟りつける。
エリザベートが若干正気に戻ったかのように目をぱちくりとさせる。
「ごめんなさい。お母さま。ひとつ訊きたいことがあるのだけど」
「なんなの。言ってみなさい」
「今って、何年の何月かしら」
エリザベートが微笑んで質問する。クリスタルはようやく娘の正気を疑いはじめ、周囲の人々に困惑の顔を向ける。
でもみんなこの場では同じ顔をしていた。エリザベート以外にはこの状況を飲み込める者などいないのだ。
「今は、一月よ。あなたは中等部をもうすぐ卒業する」
「そう。そうよね」
エリザベートは立ち上がり、自室に向かって踵を返した。
「ちょっと!」
「なんでしょう、お母さま」
態度がいつものエリザベートだったので、クリスタルの引き留めようとする心は挫かれた。
「よく寝なさいね」
「はい」
エリザベートが廊下の奥に消えていく。クレアがその後ろからついていく。
エリザベートは落ち着きを取り戻しながらも、また新たな種類の混乱で頭がいっぱいになっている。
(なんなの。なんなのよもう。なにがおこってるってのよ)
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