第6話 ジンちゃんは優しい

 私、前原柚香は幸運である。


 というのも、実は私の家族にはなんと男性がいるのだ。それもとびっきりの美少年。母親である私から見ても惚れ惚れするような天使のような容姿をしている。

 名前は前原仁。幼い頃はあまりにも可愛いく、ジンちゃんジンちゃんと呼んでいたらいつの間にか私の中でそれが定着してしまい、高校生になった今でもジンちゃんと呼んでいる。

 ちなみに妊娠は精子バンクからしたため、夫はいない。その分ジンちゃんに愛情を注ぐ事ができて良かったのだけど。

 

 そんなジンちゃんだけど、小学校高学年あたりから私に対して、というより女性に対しての態度が急変した。女性を見る目が、汚物を見るようなそんな冷たいものになり、会話もろくにしなくなってしまった。

 恐らく、誰かから何か女性に対して悪い事を教え込まれたに違いない。喋りかけられる時は、『おい』『お前』。幼少期の頃なんて『ママ〜!』と笑顔でいつも私に付いて回っていたというのに。


 ママ寂しい……。またあの頃みたいに2人仲良く過ごしたいよ。


 息子が変わってしまったことにもの悲しさは覚える。しかし、それでも私は幸せだった。家族にあんな美少年がいるというだけで日々の癒しになるものなのだ。私は満足していた。


 なのに、あんな事になるなんて。




 事の発端は、いつも通りの休日の昼下がりだった。


「ふん♪ふふんっふん♪」


 私がリビングで鼻歌を歌いながら洗濯物を畳んでいる時。


『ドダタッ!ドガ!』


 と、鈍く、そしてやけに不快げな音が聞こえてきた。音源は廊下、階段あたりだろうか。


「……?なんの音だろう?……まさかね」


 嫌な予感と想像が脳内を支配する中、そう独り言を呟きつつ階段に行くと、そこには我が目を疑う光景があった。


 愛する息子が、ジンちゃんが階段の下にうつ伏せに倒れていたのだ。どうやら気を失っているみたいだ。状況からして恐らく階段から落ちたのだろう。


 ジワリと頭の部分から血が滲み出ている。


 嫌な予感が、的中してしまった。


「───ジンちゃんッ!!!」


 そこからの記憶は曖昧だ。多分私は半狂乱になりながら救急車を呼んだのだと思う。ハッ気付いた時、私は病室でジンちゃんが眠るベッドのそばに立ち尽くしていた。



* * *



 それから1週間たった。その間にジンちゃんが目を覚ますことはなかった。

 ジンちゃんの姉の茄林かりんや、妹の心愛ゆあもかなり心配していたようだ。

 そして私も、不安で不安で押しつぶされそうだ。この1週間ろくに眠れた日はなかった。


 このまま一生意識が戻らなかったら?もし目覚めたとしても何か後遺症があったら?


 嫌な想像だけが頭をよぎる。

 怖くて、本当に怖くて。どうにかなりそうだ。

 ジンちゃんは私の生き甲斐。神様お願いします、あの子を助けてください。


 ジンちゃん……。



 私は死人のように青白い顔で、今日もいつも通りジンちゃんの病室にやってきた。

『コンコンコンッ』とノックをするが返事がないことは知っている。静かにドアを開け、今日もジンちゃんの寝顔を…



──って、え?



 ジンちゃんが、目を覚ましていた。



 少し驚いたような表情で私を見ている。まだ少し混乱しているのだろうか。

 いや、そんなことは、今はいい。


「ジンちゃん!!!!」


私はそう叫び、一目散にジンちゃんの元へ駆けていく。そして普段は絶対にしないであろう、ジンちゃんに縋り付くという行動をしてしまいつつ、無様に泣き喚いてしまった。



 あれから10分ほど経っただろうか。ようやく私は泣き止むことができた。ジンちゃんの目が覚めたことがどうしようもなく嬉しくて、自分の感情を制御できなかったのだ。

 そしてそこで、初めてジンちゃんに触れていることに気付き謝罪をしながらすぐに離れた。


「い、いえ大丈夫です。あ、すみません自己紹介がまだでしたね。初めまして、前原仁と申します。よければあなたの名前を聞かせて頂けませんか?」


 そんな私に対して、ジンちゃんは懇切丁寧な口調でそう言った。


 えっ?は、じめまして?敬語?え?


 私は奈落の底に突き落とされたような、平衡感覚が失われ今にも倒れてしまいそうな感覚に陥ってしまう。信じたくない、信じるわけにはいかない。これはジンちゃんのただの悪ふざけだ。そうに決まってる。


 ……やだよ。ジンちゃん。


 私はまた、泣いてしまった。




 それから看護師さんや、お医者さんが来てジンちゃんに色々質問をしていった。ジンちゃんは、自分を大学生だと称したり、自分は車に轢かれたなどと言っていたりと、記憶が混乱しているようだった。


 診察の結果、お医者さんはジンちゃんを記憶喪失であると判断した。


 ……きお、くそうしつ?誰が?ジンちゃんが?なんで?どうして?だって、私達は普通に暮らしてて……何も悪いことなんかしてないのに。理不尽だ。私達は、ジンちゃんは、これから幸せな人生を歩むはずだったのに。こんな事って。


 私は頭の中が真っ白になりそんなことをぐるぐると考えてしまう。人はパニックになると本当に何も実のある事を考えられなくなり、同じような事を何度も繰り返し思ってしまうのだ。


 これからどうなってしまうのだろう。……ここ最近眠れていないこともあってか、もう気力が尽きた。心が、折れそうだ。


 私がそう項垂れそうになった時、ふとこちらを見つめるジンちゃんの姿が視界に入った。

 ……ジンちゃん。私はどうすればいいと思う?



 ……いや、ダメだいけない。きっと今一番辛いのはジンちゃんだ。私が、母親がしっかりしないと。


 少しの間放心していた私だが、何とか平常心を取り戻し、そう自分を喚起する。


 もう一度ジンちゃんの顔を見てみる。けれど、どう話し掛ければいいだろうか、どんな顔をすればいいのだろうか。そんな事を考えながら、行動に移せないでいると、


「えと、母さん?」


 ジンちゃんから話しかけてくれた。


「ッ!そ、そうだよ?母さんだよ〜?」


 私のバカ!ジンちゃんに久しぶりにまともに呼んでもらえてついついニマニマしてしまった!

 TPOをちゃんと弁えないと!


 それからジンちゃんはお医者さんと少し話していたみたいだが、なんというか、かなり以前と変わっていた。まず、目つきが違う。以前のような常に何かに警戒している鋭い目ではなく、緩やかで優しい目になっている。あと、女性に対する態度や喋り方など、まるで人が変わってしまったようだ。記憶喪失とはここまで人格が変わるものなのか。……少し、少しだけ前より今の記憶喪失のジンちゃんの方がいいなと思ってしまった。


 お医者さんの話では、明日にもジンちゃんは退院できるようだ。

よかった……。とにかくジンちゃんが無事で。

そう胸を撫で下ろしつつジンちゃんの方へ顔を向けると、


「だってさ!よかったね母さんっ」


「「「はうぅ……」」」


 ジンちゃんがとびっきりの笑顔で笑いかけてくれた。


 こ、これはなんて破壊力!ジンちゃんのこんな笑顔を見るのは何年ぶりだろうか。

 お医者さんと看護師さんも胸を押さえている。わかる、わかるよその気持ち!あれはまさしくエンジェルスマイルと呼ぶべきもの!


 そして私は残念ながら仕事があるため、その日は仕方なく病院を後にし、次の日また病院に来た。


 予定通りジンちゃんは無事退院でき、車を15分ほど走らせ前原家に着いた。


「ど、どう?ジンちゃん。この家見て何か思い出しそう?」


 今尚記憶を失っているジンちゃんだが、これまで10数年間も住んでいるこの家を見れば何か変化が訪れるかもしれないと思い、そう聞いてみる。


「うーん……ごめんね、やっぱり何も思い出せないや」


 何かを思い出そうとする仕草をした後、ジンちゃんはそう申し訳なさそうに答えた。


「そ、そっか!うん、大丈夫だよ!これから何か思い出していくかもしれないし!さ、とりあえず家に入ろう」



 ……私は最低だ。


 今、記憶が戻らなくて少し安心した自分がいた。記憶を失っているジンちゃんは優しいのだ、とても。それが心地よくて、手放したくなくて、記憶喪失なままずっといてほしいと思っている自分が確かに存在している。ジンちゃんは今とても辛いはずなのに、私は自分の欲望を優先したのだ。


 私は自己嫌悪に陥りそうになってしまう。


 そうして気分が落ち込みそうになっていると、ジンちゃんに部屋の汚さを指摘され私は少し焦りながら言い訳をしたのだが、なんとジンちゃんは掃除を手伝ってくれるという。

 家事を手伝ってくれたことなんて今までほとんどなかったのに。

  私は、また泣いてしまった。ジンちゃんはとても優しくなっている。私に笑いかけてくれる。……本当に、本当に嬉しい。




 私はあなたが大好きです、ジンちゃん。

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