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  • こんにちは。
    ぜんぶひらがなで、しかも改行も殆どなしとは、また意欲的な実験だなあと思いながら読みました。
    本編ではケガと別れが毎回のように出てきて、すべてが悪夢か、あるいはそもそも日常が悪夢みたいなものなのかも、、なんて考えました。

    作者からの返信

    久里 琳 樣

    此方にもご高覧賜りまして有り難うございます。

    書き言葉に先立つ話し言葉が未だ世界の殆どを支配していた幼少期の思い出、それを支えた「音」を、改行しない意識の流れに乗せて総仮名で復元しようという、まさしく仰る通りの「実験」でした。

    そしてケガと別れ、成る程、ご指摘を頂戴するまで著者として気付いておりませんで、新たな発見をさせて戴いたような気が致します。当初は「孤悲」の思い出のような積もりでおりましたものの、慥かに悪夢にも思えて参りますね……日常が悪夢なればこそ、時折でもhappenするhappinessへの希求、感受性は用意されていて欲しいものですけれども、如何せん。

    また折々にお運び下さいますと幸甚です。

    編集済
  • 初めて貴作を見た時は、「な、なんだこれは!?」と度肝を抜かされましたが、読み進めていくうちに、子どもの頃には持っていたはずの感性って相当程度失われているんだなと気付かされるきっかけになりました。前話の事で大変恐縮ですが、「ピヤノ」という表記には、子どもの頃の語感の世界を思い出させられ、舌を巻きました。

    また、これは自分だけかもしれませんが、声に出して読んでみるとこれまた不思議なもので、自然と子どものノリ(馬鹿っぽい声)で読んでいる自分がいました。

    作者からの返信

    天秤 樣

    この度は拙文に応援やフォローのみならず★やコメントまで頂戴しまして有り難うございます。twitterでは幾度かいいねの送り合い、既にさせて戴いておりましたけれども、このようなメッセージの遣り取りは初めてですね。今後ともよしなにお付き合い下さいますと幸いです。

    大崎善生『パイロットフィッシュ』の中に「感性の集合体だったはずの自分がいつからか記憶の集合体になってしまっている」という一節がありまして、大好きなのですが、子どもの頃の感性を復原することは恐らく叶わないだろうと思い乍ら、それでも嘗ての私が持っていて今の私が喪ってしまったものにはどのようなものがあり得るかと、大袈裟に表すれば「内省」していく中で、如何やら体感した記憶はコトバのお蔭である程度は遺って蓄積されているようだと気付かされまして、その蓄積された記憶の最下層に近い部分を、幼児期の語彙と当時の覚えたての文字=仮名を用いて物してみるという試みの当拙文でした。

    過度過密な漢字・ルビ振りの読みづらさとは別種の読みづらさが総仮名の当拙文にはあったかと存じますが劉覧賜りまして、音読までして下さったとのこと感謝の念に堪えません。辿辿しい幼い「音」が「語」となり「文」に結実していく過程を味わって戴くためにも、読者諸賢には音読をお勧めするべきかもしれません!

    それから「ピヤノ」のこと、ご指摘下さった読者の方が実は他にもいらっしゃるのですが(天秤さんもよくご存じの方です)、天秤さんも好意的に解釈して下さり大変嬉しいです。現在でも「ギリシャ」「ギリシア」など、矢張り外来語を仮名表記する際に往々にして起こり得ますけれども、未だ未だ「字」ではなく「音」に支配されている「子どもの頃の語感の世界」においても「ヤ」と「ア」との区別がどう為されるのかは個人的に興味深いところでした。是は明治維新前後の日本人が「オロシヤ」「メリケン」「ミシン」などと「音」を頼りにしていぢらしくも英語を習得していく過程とオーバーラップするようで、「近代」に出逢った許りの日本はコトバの面からも慥かに『坂の上の雲』のドラマ第1話のタイトルでもある「少年の国」であったのだろうなどと、双方に似通ったノスタルジアを見出しております次第です……と、初めてのお返事であるにもかかわらず「脱線」し始めてしまいました。お喋り好きの私の宿痾と思し召して何とぞご海容下さいませ。

    兎も角、この度はコメント、改めまして有り難うございました。是より先も拙文お気軽に覘きに来て下さればと存じます。

    追伸:
    この一両日読み止しております御作は週末に拝読に伺えればと存じます。

    編集済

  • 編集済

    はじめまして、功野涼しと申します。この度は私の自主企画に参加していただきありがとうございます。

    正直私がこの作品にレビュー書いていいものか悩みましたが、私の感じたままを書かせていただきました。
    工藤行人様の意図することと全くの見当違いなことを書いているかも知れませんが、功野の理解力に免除て笑って許していただけると幸いです。

    それでも読んでいて楽しかったのは本当です。素敵な作品に出会えたことに感謝いたします。ありがとうございました。

    作者からの返信

    功野涼し樣

    初めまして、企画に参加させて戴きました工藤行人です。
    本日が最終日とのことで先ほど企画ページを拝見しに伺いましたらご盛況のご様子、先ずは何よりでございます。

    にしましても、まさかレビューを頂戴できるとは思っておりませんで、大変恐縮しております。平仮名で統一して下さったレビュータイトル、拙文の「世界観」を尊重して下さるようで、お心遣いにも心動かされました。有り難うございました。

    平仮名の音の羅列を「一回読んで、もう一回読むと文字が言葉に、そして文が見え」てきて「幼い日のぼくと、おんなのこたちの心の声が聞こえてくる」……言葉以前の「音」が徐々に言葉に結晶して「意味」の世界が起ち上がってくるようです。これが他でもない拙文の頂戴したレビューなのだと思うに付け感慨も一入でございます。

    実は起筆の当初、拙文は「恋愛」について著した積もりのものでは必ずしもありませんでした。一昨年前でしたかダニエル・ヘラーローゼンの『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房、2018)を読んでおりまして、どうやら幼児が言語を習得する過程で、それまでは発音できていた喃語=赤ちゃん語の発音を永遠に喪失するらしいということを知りまして、幼年期の私が持っていて今の私が喪ってしまったものにはどのようなものがあり得るか、という内省の足がかりとするための記憶の整理を兼ねた作文だったのです。

    ただ、自主企画のページで功野さんのお立てになった「あなたの描く恋愛模様を見せてくださいな」を目に致しまして、或いは拙文をそのように解釈する余地もあろうかと考え、企画に参加させて戴いた次第だったのです。

    喪ってしまったナニモノかを探す積もりで物した拙文は、恐らく多かれ少なかれ今の私とて未だ持っている筈の感情、「小さな恋心、でも立派な恋心」の『めばえ』(幼時に読んだ同雑誌のネーミングセンスは、今にして絶妙に思われます)の最も古い記憶を含んでおりました。朧気に存在していたものの確たる存在感を、レビューを頂戴して再認識致しますとともに、『めばえ』たその瞬間にはそれとは解らない、後になって解ってももうその瞬間には戻れないというある種のノスタルジアを噛み締めております。

    初めての「お目文字」であるにもかかわらず長々と失礼致しました。今後とも何かの折にはお気軽に遊びにいらして下さいますと幸甚です。

    編集済