おかあさん:ゆめのなかのはんにゃへの応援コメント
企画にご参加いただき、ありがとうございました。もともと企画を立ち上げたときは、(自分が詩が好きなので)、単純に書く「詩」のつもりの頭でいたのですが、工藤さんの作品を拝読し、詩にはいろいろな姿があっていいのではないかと思えました。
昔、イギリスの幼年童話、ドロシー・エドワーズの「ぐらぐらのは」を読んだ時に、この作者は幼児の気持ちをどうやってこんなに表現できるんだと感心しましたが、工藤さんのお話を読んで、同じ気持ちが起こりました。
「幼年」は時間の経過の過程で失われていくものだと同感です。
ただ、かつてあった「幼年」は、大人になってから出会うと、こんなにも力がみなぎってくるものなのだなと思いました。理由ははっきりしないのですが。
素晴らしい作品をありがとうございました。
企画の趣旨を、詩→詩を感じられる作品に訂正しておきますので、良かったら置いておいていただけると幸いです。
作者からの返信
遠野樣
この度はご企画の参加条件を弛めて下さいましたこと大変恐縮に存じます。お言葉に甘えまして、末席に拙文、参加させて戴きます(今のところ、本当に「末席」に着かせて戴いておりますね……)。又、ご感想頂戴しまして、改めて色々と考える切っ掛けとなりました。
私にも「きかんぼ」の妹がおりますけれども、拙文からドロシー・エドワーズのお話を想起して下さったとのこと何とも畏れ多く、また何より嬉しいことでした。有り難うございます。
幼年期の「ことば」の強さ、私など今以て高校時代に物した自らの文章を読んですら「力がみなぎって」来るように思われます。偏にこれは、或いはユーミンの「やさしさに包まれたなら」がその所以を代弁して呉れているような気も致します。最早、私の語るべきこと何もないような気がする程に。幼年期の私の目に映るものを尊重し、自由な意識の流れを聴し、護って呉れた、あの頃の大人達には本当に感謝しかありません(皆が皆、そういった思い出を持っている訳ではないことも承知しておりますから尚更に)。彼らに恩返し出来ないかも知れないことが目下、心苦しいところですけれども……。
「詩」というと、私は何と云って、音読に耐えるもの、という印象を強く持っております。熟れぬ乍らに和歌や漢詩を囓っている私としまして、特に詠歌するにはひらがなの音をベースに考えますし、漢詩も文字こそ漢字ではあり乍ら、朗詠朗誦された時の音の美しさを思わずにはいられません。ひらがなの表音文字としての音楽性は、私にとっての魅力であったりします(ご興味をお持ち下さいましたらば、是非にも拙『豊穣なる語彙世界』の「やまとうた」「漢詩藁」若しくは実験的な現代詩を標榜した「詞華の帙」、或いは拙『病葉和歌集』など併せてご高覧賜りますと幸甚です)。
……取り留めの無いこと許り失礼致しました。御作にも屹度、お邪魔致します。今後ともよしなにお願い申し上げます。
みかちゃん:おんなのこのちをみるへの応援コメント
はじめてのたいけん。大人になっても、ふとした時に思い出すことがありますね。
みかちゃんちに行ったことも、みかちゃんが恥ずかしくて会わなかったことも、だしてもらったジュースも、ひとりで遊んだおもちゃも、みんな自分の一部になっている気がしました。
作者からの返信
遠野樣
ご高覧下さいまして誠に有り難うございます。仰って下さったように「みんな自分の一部になっている」はずだと私自身も思いつつ、とは云えそれが昨今は如何にも朧気であえかで、何時しか消えてしまうのだろうと惜しむ思いを止め難く、記憶の細部に改竄の施されるであろうこと承知でそれでも言葉に写し取って残したくなって物した次第です。誰かに向けて放たれて彼方へ行ってしまった言葉よりも、心裡に独り言ちて誰にも向けられなかった(或いは自分に対して向けられた)言葉のほうが残り易いのでしょうか。
原風景のような絵画的な記憶を言葉にすることにどういう意味があるのか確とは分かりませんけれども(何故か、決して言語化したくない原風景もあります)、何時かそれと分かる、或いはそうと解釈の出来る日の来ることを今は愉しみにしております。
おかあさん:ゆめのなかのはんにゃへの応援コメント
こんにちは。
ぜんぶひらがなで、しかも改行も殆どなしとは、また意欲的な実験だなあと思いながら読みました。
本編ではケガと別れが毎回のように出てきて、すべてが悪夢か、あるいはそもそも日常が悪夢みたいなものなのかも、、なんて考えました。
作者からの返信
久里 琳 樣
此方にもご高覧賜りまして有り難うございます。
書き言葉に先立つ話し言葉が未だ世界の殆どを支配していた幼少期の思い出、それを支えた「音」を、改行しない意識の流れに乗せて総仮名で復元しようという、まさしく仰る通りの「実験」でした。
そしてケガと別れ、成る程、ご指摘を頂戴するまで著者として気付いておりませんで、新たな発見をさせて戴いたような気が致します。当初は「孤悲」の思い出のような積もりでおりましたものの、慥かに悪夢にも思えて参りますね……日常が悪夢なればこそ、時折でもhappenするhappinessへの希求、感受性は用意されていて欲しいものですけれども、如何せん。
また折々にお運び下さいますと幸甚です。
はるえせんせい:きれいなひとへの応援コメント
初めて貴作を見た時は、「な、なんだこれは!?」と度肝を抜かされましたが、読み進めていくうちに、子どもの頃には持っていたはずの感性って相当程度失われているんだなと気付かされるきっかけになりました。前話の事で大変恐縮ですが、「ピヤノ」という表記には、子どもの頃の語感の世界を思い出させられ、舌を巻きました。
また、これは自分だけかもしれませんが、声に出して読んでみるとこれまた不思議なもので、自然と子どものノリ(馬鹿っぽい声)で読んでいる自分がいました。
作者からの返信
天秤 樣
この度は拙文に応援やフォローのみならず★やコメントまで頂戴しまして有り難うございます。twitterでは幾度かいいねの送り合い、既にさせて戴いておりましたけれども、このようなメッセージの遣り取りは初めてですね。今後ともよしなにお付き合い下さいますと幸いです。
大崎善生『パイロットフィッシュ』の中に「感性の集合体だったはずの自分がいつからか記憶の集合体になってしまっている」という一節がありまして、大好きなのですが、子どもの頃の感性を復原することは恐らく叶わないだろうと思い乍ら、それでも嘗ての私が持っていて今の私が喪ってしまったものにはどのようなものがあり得るかと、大袈裟に表すれば「内省」していく中で、如何やら体感した記憶はコトバのお蔭である程度は遺って蓄積されているようだと気付かされまして、その蓄積された記憶の最下層に近い部分を、幼児期の語彙と当時の覚えたての文字=仮名を用いて物してみるという試みの当拙文でした。
過度過密な漢字・ルビ振りの読みづらさとは別種の読みづらさが総仮名の当拙文にはあったかと存じますが劉覧賜りまして、音読までして下さったとのこと感謝の念に堪えません。辿辿しい幼い「音」が「語」となり「文」に結実していく過程を味わって戴くためにも、読者諸賢には音読をお勧めするべきかもしれません!
それから「ピヤノ」のこと、ご指摘下さった読者の方が実は他にもいらっしゃるのですが(天秤さんもよくご存じの方です)、天秤さんも好意的に解釈して下さり大変嬉しいです。現在でも「ギリシャ」「ギリシア」など、矢張り外来語を仮名表記する際に往々にして起こり得ますけれども、未だ未だ「字」ではなく「音」に支配されている「子どもの頃の語感の世界」においても「ヤ」と「ア」との区別がどう為されるのかは個人的に興味深いところでした。是は明治維新前後の日本人が「オロシヤ」「メリケン」「ミシン」などと「音」を頼りにしていぢらしくも英語を習得していく過程とオーバーラップするようで、「近代」に出逢った許りの日本はコトバの面からも慥かに『坂の上の雲』のドラマ第1話のタイトルでもある「少年の国」であったのだろうなどと、双方に似通ったノスタルジアを見出しております次第です……と、初めてのお返事であるにもかかわらず「脱線」し始めてしまいました。お喋り好きの私の宿痾と思し召して何とぞご海容下さいませ。
兎も角、この度はコメント、改めまして有り難うございました。是より先も拙文お気軽に覘きに来て下さればと存じます。
追伸:
この一両日読み止しております御作は週末に拝読に伺えればと存じます。
編集済
まさみちゃん:おんなのこのひざにのるへの応援コメント
はじめまして、功野涼しと申します。この度は私の自主企画に参加していただきありがとうございます。
正直私がこの作品にレビュー書いていいものか悩みましたが、私の感じたままを書かせていただきました。
工藤行人様の意図することと全くの見当違いなことを書いているかも知れませんが、功野の理解力に免除て笑って許していただけると幸いです。
それでも読んでいて楽しかったのは本当です。素敵な作品に出会えたことに感謝いたします。ありがとうございました。
作者からの返信
功野涼し樣
初めまして、企画に参加させて戴きました工藤行人です。
本日が最終日とのことで先ほど企画ページを拝見しに伺いましたらご盛況のご様子、先ずは何よりでございます。
にしましても、まさかレビューを頂戴できるとは思っておりませんで、大変恐縮しております。平仮名で統一して下さったレビュータイトル、拙文の「世界観」を尊重して下さるようで、お心遣いにも心動かされました。有り難うございました。
平仮名の音の羅列を「一回読んで、もう一回読むと文字が言葉に、そして文が見え」てきて「幼い日のぼくと、おんなのこたちの心の声が聞こえてくる」……言葉以前の「音」が徐々に言葉に結晶して「意味」の世界が起ち上がってくるようです。これが他でもない拙文の頂戴したレビューなのだと思うに付け感慨も一入でございます。
実は起筆の当初、拙文は「恋愛」について著した積もりのものでは必ずしもありませんでした。一昨年前でしたかダニエル・ヘラーローゼンの『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房、2018)を読んでおりまして、どうやら幼児が言語を習得する過程で、それまでは発音できていた喃語=赤ちゃん語の発音を永遠に喪失するらしいということを知りまして、幼年期の私が持っていて今の私が喪ってしまったものにはどのようなものがあり得るか、という内省の足がかりとするための記憶の整理を兼ねた作文だったのです。
ただ、自主企画のページで功野さんのお立てになった「あなたの描く恋愛模様を見せてくださいな」を目に致しまして、或いは拙文をそのように解釈する余地もあろうかと考え、企画に参加させて戴いた次第だったのです。
喪ってしまったナニモノかを探す積もりで物した拙文は、恐らく多かれ少なかれ今の私とて未だ持っている筈の感情、「小さな恋心、でも立派な恋心」の『めばえ』(幼時に読んだ同雑誌のネーミングセンスは、今にして絶妙に思われます)の最も古い記憶を含んでおりました。朧気に存在していたものの確たる存在感を、レビューを頂戴して再認識致しますとともに、『めばえ』たその瞬間にはそれとは解らない、後になって解ってももうその瞬間には戻れないというある種のノスタルジアを噛み締めております。
初めての「お目文字」であるにもかかわらず長々と失礼致しました。今後とも何かの折にはお気軽に遊びにいらして下さいますと幸甚です。
編集済
おかあさん:ゆめのなかのはんにゃへの応援コメント
工藤さま、こんにちは。
幼稚園児である「ぼく」の一人称で切り取る世界の感じ方、捉え方。素晴らしかったです。
一話目から読み手である私は、「ぼく」の中にするりと入り込み、普段読書をする際に癖になっている推測等の深読みをやめ、「ぼく」の世界を愉しむことにしました。あの頃の感じ方を。
言葉とは認識であり、精神年齢によって対象物を表す言葉は変わりますよね。それが何であるのか、自身ですら分からず、分からないことすら分からなかった頃の感じ方。
「ぼく」から見た世界を愉しみつつも、自分が幼稚園児であった頃の想い出が幾つも蘇りました。
そして、読み進めていくうちに息子達が幼稚園児であった頃の事も思い出し、彼らにはどんな風に見えていたのか・私が感じた当時の想いや出来事が蘇りました。あの頃、育児に毎日忙しくしておりましたが、今となってはどれもが眩しい想い出でして、こうやって想起させて頂き、工藤さんに感謝いたします。
素敵な作品を読ませて頂き、ありがとうございました。
※追記
ご丁寧に外出先からありがとうございます。
御返事はいつでも、お好きなタイミングで…
私も気まぐれに拝読するタイプですし。長編を数ヶ月空けてから読んだりしちゃいますので。
「豊穣〜」の方なのですが、私、漢詩の素養がなくて…。初心者でも楽しめて漢詩に興味が持てそうな簡単な御本をご存知でしたら、教えて頂けたら嬉しいです。
追追記
御本のご紹介ありがとうございました♪
積読を少し消化してから入手を試みてみます。読んでも身に付かないかもしれませんが(^^;;
作者からの返信
葵樣
お返事の遅くなりまして大変失礼致しました。如何にも黄金週間中の気分が抜け切らず、遊び呆けてしまっていけません……。
さて改めまして、何時もご高覧下さりコメント頂戴しまして誠に有り難うございます。
思考言語を獲得し始めた幼児の胸臆に有り得たかも知れない、其の生熟れの思考言語に支えられた“意識の流れ”のようなものを自己の記憶の中に探り乍ら、「あの頃」の思考の断片、自分なりの言葉で切り取った世界の原風景を朧気にも覚えている裡に何らかの形で文章として転写しておきたいと云う目論見から、十全に文字を操ること未だ叶わぬ体で総仮名にて書き進め、三年前の子どもの日に擱筆した当拙文でした。
仰いますような「精神年齢によって対象物を表す言葉」の変化、是は先ず以て「音」の変化として顕れるような気の致します。私にも幼少期、殊に幼稚園に上がる以前において、例えば「ごっちゅもうしゃん(ご馳走さん)」「ぐえわるい(具合悪い)」など、已にして当人に其の記憶はないものの、ホームビデオの中で、或いは母や祖母らの記憶の中でそう発していた時期の有ったようです。何時しか「正しい」言い回しに矯められてしまいますけれども、今にして何やら少し残念な気もしないではありません(「矯正」されねば、其れは其れで問題であるとは云え)。
葵さんは御自身の幼少期を回顧する視点からのみならず、お子さん達の幼少期を見戍られた親と云う“観察者”の視点からも、当拙文に対する重層的な「読み」の可能性をお示し下さり、殊に後者の視点からの「読み」は成る程、著者たる私にとっても意外な盲点でした。
多分に実験的な拙文への瀏覧を賜りましたことに今一度、感謝をお伝えさせて下さい。
追伸:
漢詩の本、実は私も余り多くは知らないのですけれども、例えば芸術新聞社の『墨』と云う雑誌の2022年7・8月号(277号)の特集「漢詩はむずかしくない!? 味わい方から書作テクニックまで」(5-59頁)はコンパクトな“入門書”として読めるように思われます。少し慣れて来ますと、放送大学の教材『中国古典詩学』(1997)を文庫版に改編した佐藤保『詳講 漢詩入門』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、2019)が一等、お勧めです。