猫の手

三園 七詩【ほっといて下さい】書籍化 5

第1話 猫の手



美希は今年新入社員として会社に入ったばかりの新人、仕事にもようやく慣れてきた頃に仕事でミスをしてしまった。


「柏木くん、もう会社に入って半年だろ?こんな初歩的なミスをするなんて…」


「クスクス」


山田課長に怒られていると周りの同期からは失笑が漏れる。


この部署に入った新人は三人…私と麗子さんと早織さん。


麗子さんと早織さんは知り合いらしく、最近の若者らしく華やかで美人だ、それに比べて私は田舎から出てきてファッションなんてわからない。


「麗子ちゃんコピーお願いできる?」


「早織ちゃん、お客さんをご案内してあげて」


「柏木くんは…お茶入れてくれ」


男性社員の扱いも違いがある。


それでも一生懸命仕事をして少しずつ仕事をされて貰えるようになったと思ったらこの有り様。


「全くさ~取り引き相手の名前を書き間違えるなんて勘弁してよ」


山田課長が呆れながら書類を机に叩きつけた。


「す、すみません…」


謝って書類を見てなんか変だと違和感に気がついた。


「え?」


書類が違ってる…私の担当でないお客様の名前が書いてあった。


「か、課長それ…」


私じゃないと言おうとすると麗子さんが課長にお茶を持ってきた。


「課長、そのくらいにしてあげてください。お茶でも飲んで落ち着いて」


麗子さんが微笑みながら課長を見つめる。


「麗子ちゃんありがとう、全く麗子ちゃんぐらい愛想良くできないもんかね」


課長はもういいとばかりに手を振って私に席に戻れと合図する。


これ以上言っても無駄かと麗子さんをチラッと見ると口角がクイッと上がった。


「まさか…」


唖然とする私をもう誰も相手にはしなかった。



「はぁ…」


昼休みになって私は人が寄り付かない会社の裏手のベンチで手作りのお弁当を出した。


課長に今日中に書類を直せと言われたが私の力では残業をしないと無理そうだった。


「しっかり食べて夜に備えよう…」


お弁当を開けると美味しそうなおかずの匂いが鼻に届く。


会社でこの時間だけが楽しみだった。


「いただきます」


手を合わせて早速食べようとすると、スルッと足に何かが触れた。


「きゃ!」


驚いて下を見ると真っ暗な猫が私の足に絡みついていた。


「にゃ~」


「びっくりした、クロちゃんまた来たの?」


「にゃ~」


クロはこの会社の裏手に縄張りがある猫のようで私がここでご飯を食べるようになった時からたまに見かける様になった。


「ふふ、こんにちは」


私が手を伸ばすとクロは気持ちよさそうに手に擦り寄る。


「ちょっと待ってね」


お弁当バックから小さなタッパを取り出すとクロは嬉しそうに「にゃーにゃー」と鳴き出した。


「はい、ほらササミだよ」


クロの為にもササミを湯掻いて持ってきていたのだ。


人間のおかずをあげる訳にはいかないので別で作って持ってくるようになっていた。


クロは待ってましたとばかりにササミを美味しそうにガツガツと食べる。


クロの嬉しそうな姿に癒されるが今後の事を考えると食欲もわかない…私は少しだけ食べてパタンと蓋を閉じてしまった。


「にゃー?」


クロは様子のおかしな私に向かって首を傾げて鳴いている、まるでどうしたの?と言われてるような感じに思わず愚痴をこぼした。


「私ね…今日会社で怒られちゃって。ミスをしたんだけど…それって私のミスじゃ無いんだよね…」


「にゃー」


クロは落ち込む私を励ますように顔を何度も擦り寄せる。


そして私の前にちょこんと座ると右前足をあげた。


「ん?どうしたの?」


まるで握手でもするかの様に手をあげている。


「ふふ、まさか助けてくれるって言うのかな?」


「にゃ!」


クロはもう一度鳴くとまた前足をピクっとあげる。


「本当にクロの手も借りたいくらいだよ」


私は可愛いクロの前足をそっと握りしめた。冷たい肉球が触れて気持ちいい。


するとクロは「にゃ~ん」と艶めかしく鳴いて行ってしまった。


「さてと、私も戻って仕事しよ。普通の仕事もしなきゃだしね…」


お弁当を片付けて私は重い足取りで会社へと戻った。


まだ部屋には誰も戻ってきてない、 ほっとして私は机に座るとミスした書類を取り出した。


「やっぱり…」


見ればやはり私が仕上げた書類ではなかった。でも担当のところにしっかりと私の判子が押してある。


判子は机に入れっぱなしなので使おうと思えばできる、しかし今更何か言っても誰も私の事を信じやしない。


ならしっかりと直して叩きつけてやる!


データを取り出して最初からやり直した。


帰りの時刻が来ても半分も終わっていない…このままでは本当に会社で一晩明かす事になりそうだ。


「柏木さんまだ終わってないの?」


「お疲れ様ー私達帰りますね~会社の人達に飲みに誘われたので」


麗子さんと早織さんが帰り支度をして机にわざわざ言いに来た。


「お疲れ様です…」


きっとこの書類は麗子さんのだと思うが証拠がない。


私は素っ気なく返事をするのがやっとだった。


「まぁ柏木さんは暇でも誘われないでしょうけど」


「やだ、麗子そんな本当の事を言ったら失礼よ」


二人は楽しそうに笑っている。

ならさっさと行ってくれ!


私は無視して手を動かしていた。


「すみません」


すると他の部署の人がやってきて声をかける。

二人はその人を見るなり黄色い声をあげた。


「きゃあ!黒田さん、なんの御用ですか!」


二人は慌てて黒田さんに駆け寄った。


黒田さんは他の部署の人で若手ながらもう課長になるほど仕事が出来る人らしい、見た目もよくイケメンで背が高く、麗子さん達がいつも噂していた。


あれが…


私は黒田さんを見るのは初めてだった。


ニコッ…


え?


私はサッと顔を逸らした、今目が合って微笑まれた気がした。


いや、気の所為だよね。


私には関係ないとそれよりも仕事を進める。


「ちょっとこの書類で聞きたいことがありまして、山田課長はいますか?」


「おー!黒田くんどうしました?」


山田課長は下手に出ながらそばによる。


うちの部署と黒田さんの部署では格が違い断然向こうの方が高いのだ、年下に頭を下げる課長を見て少し胸がスっとする。


「この書類を作ったのは誰ですか?」


「これは…」


課長は渡された書類を見るなり私に顔を向けた。


「あー、それ柏木さんがミスして、すみません黒田さんにまでご迷惑おかけして…」


麗子さんがまるで自分の事の様に謝っていた。


「今柏木さんが直してますから明日にはお渡し出来ますよ」


勝手に明日渡す約束をしている。


「そんな事より黒田さんもこれから一緒に飲みに行きませんか?私達黒田さんともっと仲良くなりたいんです」


麗子さんは黒田さんの腕を掴んで自分の体にくっ付けた。


「同期が大変な時に君達は飲みに行くんですか?」


「「え…」」


黒田さんに冷ややかな目を向けられて麗子さんの顔が固まった。


「それにこれを見るとどうも柏木さんの書類とは違う気がします。山田課長…ちょっといいですか?」


黒田さんは麗子さん達を無視して山田課長を連れて会議室へと入ってしまった。


「な、何よ!」


麗子さんは自分の色気が通用しなかったのを怒っている。


「ほら、麗子ちゃん行こうよ。僕らが今日は奢るよ!」


会社の人達がご立腹の麗子さんを促して外へと連れ出そうとするとその手を払いのけた。


「触らないで!私は黒田さんと行きたいんです!」


「れ、麗子!」


早織さんに注意されて麗子さんはハッとする。

怒りで猫を被るのを忘れてしまったようだ。


「あっそ…なら俺達は帰るわ。おつかれー」


すると同じ部署のみんなは白けた様子で麗子さん達を置いて帰ってしまった。


「もう!なんなのよ!」


クスッ…私は思わず笑ってしまった。


麗子さんはキッ!と私を睨みつける。


「あんた今笑ったわね!このブスが私を笑うなんてふざけんじゃないわよ!」


麗子さんがズカズカと私に向かって歩いてくると目の前に立って手を振りあげた。


叩かれる!


そう思って目を閉じるが痛みはない…そっと目を開くと麗子さんは黒田さんに腕を掴まれていた。


「く、黒田さん…違うんです。私この子に叩かれそうになってそれで…ねぇ!早織そうよね!」


「え?ええ、まぁ」


早織さんが曖昧に返事をするが黒田さんは冷ややかな目をしていた。


「この会議室はマジックミラーなの知ってますか?向こうからこっちの様子は筒抜けですよ。ねぇ山田課長?」


「は、はい…」


山田課長は真っ青な顔で頷くだけだった。


「先程山田課長とも話したのですが、この書類は改ざんされていました」


「「え?」」


それには私も驚いて声をあげる。


「人の判子を無断で使うなんで会社員として、いや、人としてどうなんでしょうね」


黒田さんは意味ありげに麗子さんに微笑んだ。


「わ、私は知らない!」


麗子さんは手を払い除けると後ずさりする。


「麗子ちゃん…いや、高橋さん、話があるからこちらに来てください。森岡さんも…」


山田課長に名前を呼ばれて麗子さんと早織さんは顔を真っ青にした。


三人が出ていくと部署には私と黒田さんだけになった。


「えっと…ありがとうございました」


私はとりあえずお礼を言った、これで今日は残業しなくて済みそうだ。


「いいんですよ、それよりも手を貸してあげたから私のお願いも聞いて下さいね」


「へ?」


黒田さんはニコッと笑って私に近づいてきた。


迫られて後ずさりするが机が邪魔して逃げ場がない。

黒田さんはドンドン詰め寄ると顔を近づけて頬に頭を擦り寄せた。


「え?」


この感触…


「クロ?」


「にゃー、正解」


黒田さんはクロの鳴き声で鳴いた!


「えー!嘘!クロが黒田さん!?」


「まぁそれは置いといて、私は約束通り手を貸したよ。美希さんには責任をとって貰わないと…」


「せ、責任!?」


何をされるのかと思い聞き返す。


「私の番になって下さい」


黒田さんは手を取ると手の甲をチュッと舐めた。


その舌は猫の様にザラっとしていた。


「ずっと君を狙ってたんだ。君が助けを求めてくれて助かった。これで正式に私のものだね」


黒田さんは嬉しそうに笑っている。

その顔はササミを食べるクロと同じだった…


「猫の手を借りたばっかりに…」


私は会社一イケメンの男に捕まってしまった。

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