虎と馬
何一つ大丈夫なことがないのに、大丈夫だと言ってくる、その神経が大丈夫じゃない、と思う僕の方がたぶん大丈夫じゃないんだろう。大丈夫じゃない、大丈夫じゃないよ僕は。貴方が僕の傍にいたところで、僕の肩に触れたところで、僕の心を蝕むものは着々と蝕んでいっていて、何一つ変わりゃしない。そんな状況に身を置いているんだ。だから、貴方が無責任にも言うその「大丈夫」も、ただの上辺だけの偽善で、僕のことを何一つ救っていない。全部全部嘘なんだから。
「やめて、僕に触れないで、ください」
「……ごめん」
手を引っ込める貴方の顔色は見れないけど、その声色で、僕が貴方を悩ませているのがわかった。何故、こんな僕を貴方は良い子だと言ってくれたのだろう?
着替えたくても動けなくて、汚れが取れないままこびりついて、僕自身にも付着して。僕が触れるもの、関わるもの、全てが、僕によって汚される。そんなのはもう見ていられないから、僕を今すぐに消してしまいたい。
「ボス、貴方って悪魔なんですよね?」
「ん?まあね」
さあね、にも聞こえるような曖昧で濁った返答をされて、彼は悪魔と分類されるのが好きじゃないのかもしれない、とちょっぴり感じた。
「僕のことって殺せますか?」
「うん、その気になればね」
僕の死んだ目で彼の方を一瞥すると、彼はモノクロ写真でも色鮮やかで綺麗だと分かるような、そんな輝かしさを持っていた。太陽を背後に取っているような、そんな後光が差している。しゃがみ込んで、ちっちゃい子に対する蟻みたいに、彼は僕をまじまじと見つめていた。僕はそんな彼の顔を見ていたくて、寝返りをして横向きから仰向けに、でもその眩しさで目が眩まないように、目の上に軽く腕を当てて、照れくささで笑ってしまった。
「どうしたら、その気になってくれますか?」
ふざけたように冗談だと偽って、彼の心の中を探ってみようも
「秘密、教えないよ」
とその貼り付けたような微笑みの裏を見せてくれない。
「えー?意地悪なんですね」
「君のがよっぽど意地悪だよ。私にリアを殺させようとするなんて」
ねえ、それ。その、リア、って誰なの?僕のことのようには思うんだけど、僕のことじゃないように聞こえるの。貴方は僕じゃなくて、そのリアを通した、偽りの僕を見ている気がするの。だから、ムカつく。
「悪魔って、殺しが仕事じゃないんですかぁ?」
「私は仕事においては怠惰な悪魔だからね。サタにいつも怒られてばかりいるよ」
僕が言葉で貴方を刺そうとも、貴方は痛みも何もないような平気な顔して、そうやって微笑むんだ。僕が何も貴方には影響を与えてないようで安心する、一方で、僕の存在意義も存在意義の否定も貴方にはないようにも感じていて、殺せばいいじゃんって思っちゃう。ただの暇つぶし程度にしか思われていない。そんな気がする。
そこで、僕が突然、貴方にキスしたら、貴方はどんな顔をしてくれるのだろうか?殺してくれるのだろうか?それとも、微笑んでくれるのだろうか?なんて、まず客観的に考えて、そんなことができるはずもないんだけど、僕の気持ち悪さを存分に晒して、僕は貴方と気持ち悪いことをしたいとまで思ってしまっている。心底、気持ち悪いけどね。
「ボスぅ、うふふ、ふふっ」
「何?」
「何でもないです、ごめんなさい」
いいや、何でもあって、それを貴方に伝えたくて、でも僕は汚くて、何でもないという言葉で片付けてしまう。僕は綺麗で痛い、リアになりたいな。
「リア」
触れられたくないけど、抱きしめて欲しい。僕をもっと欲しがって、愛して欲しい。
貴方の頬に触れようと伸ばした手が重力に負けて落ちる。骨が硬い床に当たり、コンと軽い音がした。
「すみません。僕、疲れてるみたいですね」
「ふふっ、ゆっくり休みな」
そう言われて、目を閉じた。
悪夢の中で、また怒られる。僕がそんなに悪いことしましたか?会いたくない人間ばっか。次の場面では、僕は轢かれてる。片脚が動かなくなって、血塗れになった。悪夢だけれど、激痛が走って、とても痛い。道行く人達は、僕を見ては顔を歪めるだけで、誰も僕を助けようとはしない。片脚を引き摺りながら、バスに乗り込んで、普通に通学したけれど、理由も問わずに遅刻で怒られた。
そんな悪夢から目が覚めて、夢も現実も最悪だ、なんてしばらく思った。けれども、床で寝ていた僕にはタオルケットがかけられていて、部屋の蝶番は直されていた。凝固した血がパリパリになって、僕に貼り付いていたため、床にもタオルケットにも血が付いていなくて、安堵のため息を付いた。涙には色が付いてなくて良かった。
シャワーを浴びて、血を洗い流して、鏡にうつる自分の姿に違和感を覚えながらも、柔らかくていい匂いのする真っ白なバスタオルに包まれた。フリルの付いた甘美で品のある洋服に、ツンとした鼻が愛らしい端正な顔立ち、バターのような優しい髪色のボブがよく似合っている。サファイアの宝石みたいな瞳が、光に反射して煌めいているのに見蕩れてしまう。僕じゃない、鏡にうつる少年は、美しすぎる。
「リア、おはよぉ。あ、ドーナツ食べるぅ?俺、ダイエット中だからさぁ」
リビングへと出向くと、昨日の美麗な男性がドーナツを勧めてきた。ボスを除いた数名が六人掛けテーブルに一つ席を足したような七席の内、各々好きな席に座っていて、朝食を取っている。朝食としてはオムレツが人数分用意してあり、ドーナツはあくまでスイーツとしてらしい。
「とか言って、昨日一個食ってたくせに」
と意地悪く言うのは、その男性の隣りに座るルゼさん。みんなよりもいち早くオムレツを食べ終わり、ドーナツを手にしている。
「はぁ?お前が買うてきたゆーから、しゃーなく食ってやっただけやけどぉ?」
「そんな怒んなよ。糖分不足で沸点が低くなってんの?」
自ずと口論が始まってしまったので、キッチンに置いてあったオムレツを手にして、その二人を目の前に、サタさんとアムさんの間に座った。
「ムカつくぅ」
「キュー、わいがええこと教えたるわ。キレながらドーナツ食う奴はおらんらしいで?」
「さらにムカつくぅ」
ん?アムさん、今、あの美麗な男性のこと、キューさんって言った?僕のオムレツを切っていた手が止まった。だとしたら、ルゼさんとキューさんが喧嘩するのは自然な流れだから、確かに。そう言われれば、キューさんにしか見えなくなってくる。
「リア、どうしたん?そんなに俺の顔見て、もしかして、見蕩れちゃった?」
キューさん(?)にバレた。
「いや、あぁ、はい。お綺麗だなぁ、って」
なんて答えればいいのか分からなくて、とりあえずはにかんだ。
「いひっ、リアはキューのことを女やとばっか思ってたんやろ?残念やったなぁ、男で」
僕に追い討ちをかけるように、アムさんが僕の肩に手を乗せてきて、陽気に叩かれる。はにかむことしかできない。
「アム」
サタさんが犬に躾けるように、名前を一言、強めに発した。その声で、アムさんは僕の肩を叩くのをやめて、行儀よく座り直して、大人しく食事に戻った。
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