招き猫
破死竜
月夜の晩に
ベンチがある。
二人が横に並んで座れば、もうそれだけでいっぱいの、小さな木製のベンチだ。
ベンチがあるのは、公園である。
これもまた、小さかった。
ベンチ以外には、夜間のためビニールのかけられた砂場が一つ、子供用らしい大人の腰の高さほどの鉄棒が一つ、水飲み場が一つ。
あるのは、それだけ。トイレすら無かった。
ベンチの前に、女がいた。
烏のような黒い髪を首元で束ね、スーツの背中に垂らしている。
女は、地面に正座し、自分の顔の高さにある板の上を眺めていた。
そこには、花瓶が一つ、コップが一つ、置かれてあった。
いずれにも、今、入れられたばかりらしい水が注がれている。女の膝の隣、地面に置かれたカバンは、これらの物を入れ、持ってくるために使われたのであろう。
公園には、女の他に人影はなかった。遠くから、バイクか自動車の走行音らしき音が、時折聞こえてはくるが、それも、近づいてくることは無かった。
「Nalalalago・・・・・・」
女が、”鳴いた”。
”泣いた”のではない。明らかに、”鳴いた”のである。
笑うでも怒るでもない、平静な顔をしていた女が、月光の降り注ぐ中、
突然、鳴いたのだ。
それは、ヒトではなく、猫の鳴き声であった。
女の声に導かれるように、ベンチに差す月光の中を降りて来るものがあった。
影は二つ。先にいる小さな方は、猫である。女の方へ歩いてくる。
その歩みは、二本足の、明らかにヒトの仕草であった。
猫のように鳴く女の元へ、ヒトのようにあるく猫が降りて来る。
その異様な逆転にも動じず、猫の後ろから歩む大きな影が一つ。
着物姿の彼は、ヒトであった。そして、ヒトのように歩いていた。
だが、その脚の動きは月光の中でも朧に霞んで見えなかった。
彼は、実体ではないのだ。
一匹と一人は、やがて、女の前に降り立った。花瓶とコップの左右に、
それぞれ腰を下ろす。どちらも、ヒトの座り方であった。
「今年も、ありがとうな」
男が、猫の方に礼を言った。
その言葉に、猫は、ヒトのようにうなずき、それから、全身を一度、
大きく震わせると、今度は、ただの猫がそうするように、コップに近づき、
舌を長く伸ばすと、ぴちゃぴちゃと水を舐め始めた。
その様子に目を細め、男は、女の方に向き直った。
「逢えたね」
女が、真っすぐに立ち上がる。先ほどまで、猫の顔で鳴いていたとは思えない、
ヒトとしての感情が、表情に現れていた。
その感情の名は、『懐古』――。
「逢えました、今年も」
女の口から、ヒトの声が零れた。その声は、涙に濡れていた。
瞳は乾いたまま、その声だけが濡れている。
「『七度生きる』猫の命を一つ借りて、ヒトの命を代わりに貸し出す。
そうすれば、死者に逢えるのだと、そう教えてくれたのは貴男でしたもの」
女は、男に近づき、しかし、その前で足を止めた。抱きしめようとしても、ベンチに突き当たるだけだと、そう知っていたからだ。
それでも、その想いは伝わった。なぜなら、男も、また立ち上がったからだ。
男も、そこから一歩も前に出ようとはしなかった。女に触れられないことを、再び確かめてしまえば、二人ともが傷ついてしまうと、そう知っていたからだ。
そこからはもう言葉もなく見つめ合う二人を、
今は、もう、当たり前の一匹のように、
鷹揚に、
興味深そうに、
しかし、すぐにも飽きてしまいそうな、
一匹の獣の瞳で、
ベンチの上から、
猫が、見つめていた。
おしまい
招き猫 破死竜 @hashiryu
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