母から『くじら』とメールが届きました。

Mari

*


仕事を終えてから習慣着いているスマホへの通知スクロール。


携帯会社からのお知らせや【現金を受け取ってください】とかいう迷惑メール、【今日のランチはあんパンでした】とかいう彼氏からのしょうもない連絡など通知が沢山来ていた。


その中でも目を引いたのは久しく連絡を取っていなかった母からのメール。


『くじら』


それは『久しぶり』だとか『元気にしてる?』だとかそんな定型文は見当たらず、ただ『くじら』とだけ打ち込まれたメールだった。


くじら?くじらってあの鯨?そうだとして一体それがどうしたというのか。


会社からアパートまで徒歩10分。その間の暇つぶしにでもなるだろうかとメールではなく、通話マークをタップしてスマホを耳元に持って行った。


母が出るまでの数コールの間、妙に緊張をしてつい足元のヒールの音が早くなる。


5コール目が鳴り終わる前に「まぁ!」という母の狼狽な声が耳元で響いた。

変なメールをそっちから送っておいてそこまで驚くか、という思いもあったが電話が来るとまでは思っていなかったのかもしれない。


「やだもう急に電話なんてー!!元気にしてる?」


就職してから5年。

就職先が実家から結構離れていることから会社まで徒歩圏内のアパートへと移った。

仕事が忙しいのもあって家族との連絡はまともに取っていなかった。


「元気にしてるよ、ところであのメール何?」


仕事終わりのこの時間。

居酒屋の店員が開店したことを意味する暖簾を軒先へ掲げる姿を横目に私は要件を早々に切り出した。


「あぁ、あれね!」


母は最初に電話に出た時のトーンをそのままに話を続けた。


「奈緒、くじらが欲しいって言ってたの覚えてない?」


「は?」


私は意味が分からずに少し強めの口調で聞き返した。


「奈緒が幼稚園の頃、家族で水族館に行ったでしょう?」


それは確かに行ったことがある。

幼い私に「凄いものを見せてやろう」と家から父が車で2時間半くらいかけて運転して水族館に連れて行ってくれた。

まぁ、良くある家族でのドライブだ。


「それが何だっていうの?」


「その時初めてくじらを目にした奈緒が言ったのよ、くじらが欲しいって」


そんな事を口にした記憶は一切なかったが、仮に言っていたとしてもそれが何だというのだ。


「色んなお魚を見て回ったけど、奈緒はくじらの水槽の前で1時間もずっと立っていたのよね」


確かに鯨はその水族館に居た魚の中で一番大きくて迫力があったと思う。

1時間もずっと見惚れていた記憶はなかったけど。


「でね、ついにパパが買っちゃったのよ!!!!」


 母は破裂音の様な声を荒げる。


「何を?」



「くじら!!!!!!」



母の声が私の右耳の奥でキィンと音を立てて、それから全身にジーンと伝わるように足の先まで落ちていく。


「・・・・・・鯨を?飼ってるの?」


鯨を飼うってなんだ、と覚えたことの無い感情を落ち着ける様に少し間を開けてから私は聞き返す。


「そう!!!!奈緒が欲しいって言うからパパ頑張ったのよ!!!次の休みに帰ってくるといいわ!」


耳元で聞こえる母の声へ恐怖を感じ、思わず通話終了ボタンを押した。

狂っている、と思った。一体何なんだ。

そもそも実家に鯨を住まわせられるような水槽を置ける広さは無い。

冗談だろ、と思った瞬間、母から写真が送られてきた。




私はそれから母と通話をした3日後、実家へと足を運んだ。

車で1時間。母から送られてきた写真が運転中もちらちらと脳裏に巡る。


駅近くのパーキングに車を止めて久々の実家までの空気を吸いながら歩いた。

まだこちらに住んでいた頃からある少し古びたスーパーもコンビニも何も変わっていない。

向こうで履き慣れたヒールの踵をコツコツと鳴らしながら、田に張り巡らされた水を風が拾って頬を撫でていくのを感じる。


ふいにヒールの音を止めた。




私が5年前まで住んでいた場所には、父が30年のローンで購入した住宅も、母が手入れしていた中庭も全て無くなっていて、あったのは私達家族が住んでいた家と変わらない大きさの水槽だった。



水槽の中の大きな大きな鯨が私を目に捉えて口元を緩めた様な気がした。

 

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母から『くじら』とメールが届きました。 Mari @mari3200mari

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