「プラチナの季節」を読んで

押田桧凪

「プラチナの季節」を読んで

      飯沼第二中学校 2年 品井 叶都


 息が詰まりそうになる瞬間を僕は知っている。呼吸ができなくなるといった物理的な意味ではなく、遠い場所から僕を見下ろして、さげすんでいるような視線を感じるのだ。圧迫感や疎外感。そういった得体の知れない恐怖がそこに隠れている。僕はこの本を読んで、それが何なのか少し分かったような気がする。

 クラスに馴染めずにいる中学校二年生の主人公ハヤテは、ある日、図書館で「プラチナコガネ」という虫を図鑑で見つける。中南米に生息するとされるその昆虫は、擬態に長けており、ぴかぴか光る金属のような姿にハヤテは魅了された。それが、彼らの生きるすべであり、それと同時に美しさを兼ね備えるプラチナコガネにハヤテは憧れた。その日から、ハヤテはクラスの「色」に染まろうと行動するようになる。給食当番や大掃除の時は時間通りにみんなが動けるように素早く指示を出し、率先して日直の手伝いをおこない、先生からの頼まれごとは全部ひとりで引き受けた。すべて、うまくいった。ハヤテの学校生活は順調だった。クラスメイトからの反応を除いて。

 擬態。そこには大きな落とし穴があると僕は思う。二面性という言葉がよく使われるように、誰しも「影」になる部分があって、人によく見せたいと思う部分には当然、裏の感情も存在する。ハヤテの行動の裏には黒い部分があるんだと、ある一人の生徒が指摘したことで、たちまちハヤテはクラスメイトから嫌われることになったのだ。そこが、落とし穴だった。ハヤテは他人のためにやろうとした気持ちこそすれ、決してクラスのみんなに好かれようとしたり、先生のご機嫌取りになりたかったりした訳ではなかった。ただ、仲良くなりたかった。友達をつくったり、話したりするきっかけが欲しかっただけなのだ。しかし、引っ込み思案で、もともとクラスから浮いていたハヤテには、そう簡単に彼らの理解を得ることは難しかった。

 擬態。人間と自然界の生物には大きな隔たりがあった。生物が本能として、生きるために行うことも、人間にとっては、時に「偽善」だと受け取られることもあるのだと、僕は思った。何らかの報酬を期待して、やったと思われるのだ。

 学校だけでなく、周りに馴染む、空気を読むということが強制させる現代の社会において、僕たちはこれから多くの場面で「擬態」することが求められるのかもしれない。そんな時、僕はこの本のつぎの言葉を思い出したいと思う。

 「ギンイロのハネで君は飛ばない」

 これは、ハヤテが教室から逃げ出して、保健室の先生に相談したときに言われた言葉だ。周りの風景を全て反射するほどのプラチナコガネの光沢は、葉の上の水滴に擬態するとき、そのギンイロのハネで飛ぶことはない。じっと、身を潜めるのだと。耐え忍ぶこと、受け入れること、生きること。どんな嫌なことにも必ず終わりはやって来て、そんな思い出を吹き飛ばすくらいに楽しいことで満ちあふれた、つぎの季節がやって来るのだと、先生は言った。

 得体の知れない恐怖。それは、心無い誰かから色眼鏡で見られることだ。その行動の裏をくみ取ろうとしなかったり、物事の背景をよく知らずに判断することだ。そういう人たちはたくさんいて、それが今の世の中の生きづらさにつながる問題でもあると僕は思う。

 批判されたっていい。馬鹿にされたっていい。ギンイロのハネがきっと味方してくれると僕は信じている。

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