十五話 私の過ち  セルミアーネ視点

 私は普通騎馬で8日掛かる道中を7日で駆け抜けてカリエンテ侯爵領に到着した。領都で話を聞き、カリエンテ侯爵家代官のキックス男爵の家を探し当てた時は驚いた。侯爵邸の城壁にくっついて立てられている小さな平屋の建物で、まるっきり平民の農家だったからだ。聞けば元はキックス男爵は庭師だったそうで、家もその時のままらしい。


 敷地に入り、そこにいた夫人に声を掛ける。


「すみません。こちらはキックス男爵のお家で間違い無いでしょうか」


 少しふくよかな夫人は私を見て目を見開き、警戒心も露わに答えた。


「・・・そうですが。何の御用でしょうか」


 その時の私の旅装は強行軍が祟って汚れてボロボロだった。嫁取りならもう少し気を使うべきだったかもしれない。


 その時家のドアが開いて細身の男性が出て来た。口にパイプをくわえている。私を見るとたれ目気味の目を見開いたが、少し観察して私に敵意が無い事を見てとったようだ。


「こんな田舎まで中央の騎士が何の用かね?御屋形様のお使いかな?」


 この二人がキックス男爵夫妻。ラルフシーヌが話していた領地の義理の両親。育ての親で間違いなさそうだ。ラルフシーヌの口ぶりではこの二人に非常に懐いて感謝しているようだった。この二人の機嫌を損ねる事は絶対に避けなければならない。私は胸に手を当てる騎士の礼をして言った。


「私は騎士、セルミアーネ・エミリアンと申します。この度、ラルフシーヌ様の婚約者になりました」


 その言葉にお二人が驚愕したのは言うまでもない。



 それから私は居間と思しき部屋に通されテーブルでキックス男爵と向かい合っていた。お茶を出されたものの、キックス男爵は一言もしゃべらない。少し不機嫌そうな顔をしてもいる。物凄く居心地が悪い。ただ、ここで狼狽えた態度を見せる訳にはいかない。私は姿勢を乱さず黙って座っていた。


 やがて部屋の外で話し声がした。私の心はときめいた。そして部屋の入り口から私の女神がひょっこり顔を覗かせたのである。


「ラル!」


 私が思わず叫ぶとラルフシーヌはきょとんとした顔をした。ああ、変わらない。というか、より美しくなったようだ。何度も夢に見た銀色の髪と金色の瞳。あの時は幼さを残していた顔付はすっかり大人の女性の物に変わっていた。背丈も少し伸びたし、身体の曲線も美しさを増している。今は少し日焼けをしているし、汚れてもいるようなのに、私には彼女が輝きを放っているように見えた。


 私は感動でそれ以上声も出せずに立ち尽くしていた。ラルフシーヌは怪訝な顔で私をジロジロと見ていたが、やがて思い出してくれたようだった。


「・・・ミア?」


 私は久しぶりに呼ばれたその愛称に感動して叫んだ。


「覚えていてくれたのですね!」


 私は有頂天だったが、この時私が喜ぶほどラルフシーヌが喜んでいない事にはまるで気が付いていなかった。


 そのため続けて私がこう叫んだ瞬間に部屋の中の空気が凍り付いた事に全然気が付かなかったのだった。


「ようやく侯爵閣下の御許可が頂けました。私と結婚して下さい。ラルフシーヌ!」


 愕然とするラルフシーヌ。私は侯爵から貰った婚約を証明する書類を見せながら事情を説明したが、ラルフシーヌが混乱してしまったらしく、男爵が促して三人は部屋を出てしまった。私は何がラルフシーヌを混乱させたのか全然分からず、呆然と座っていた。すると、バタバタと足音がしてラルフシーヌが駆け込んでくるなり、大声で叫んだのだ。


「私!貴方と結婚したくありません!」


 私は思わず飛び上がった。なぜ彼女がそんな事を言うのかが分からない。


「な、何故ですか?ちゃんとお父様の許可も頂いて来たのに?」


「お父様の許可があれば良いの?私の気持ちはどうしてくれるの?」


「いや、その、私はあなたに何度も求婚して」


「私にじゃなくてお父様にでしょう!私にはあれから一度も会いに来なかったし。文の一つも寄越さなかったくせに!」


 あ、私はそれで漸く失敗に気が付いた。確かにその通りだ。


 確かに私はラルフシーヌに直接に求婚したことが無い。それは彼女が帝都から遥かに離れたここに居て、容易には来ることが出来なかったからではあるが、無理すれば何とか来れない事は無かった。しかし私は、侯爵へのアピールと騎士として精勤し出世する事を優先したのである。その方が効率が良いと思ったからだ。だが・・・。


「そもそも私は貴方に好きだとも愛しているとも言われた事が無いわ!そんな人の所にいきなり嫁には行けません!お帰りください!」


 全くもってその通りだ。私は毎日ラルフシーヌの事を想い、日々ラルフシーヌのために頑張っていたので忘れていたが、ラルフシーヌにとって私は二年前、半日同行した騎士に過ぎないのだ。侯爵は私の求婚についてラルフシーヌに内緒にしていたらしい。


 しまった。いや、想いを伝えよう。贈り物をしようと考え無かったわけではない。しかし、こんな遠くに手紙や贈り物を届ける方法が無かったのだ。人に頼んだらかなりの金額が掛かるし、その者が手紙や贈り物を持ち逃げする可能性はかなりあると考えなければならなかった。一度侯爵夫人に託せないか打診したのだが断られた。後で聞いたが男爵令息の方はラルフシーヌに直接大量の贈り物をしようとしていたが、求婚合戦をラルフシーヌに知られたく無いと考えた侯爵が領地の境で全て止めてしまったそうだ。そのため、不公平になるからと私の手紙も断ったとの事。


 私は「結婚は親が決める」という事を余りに重視し過ぎて、ラルフシーヌへのアピールを蔑ろにしていたのだ。彼女の感情を軽視したと言われても仕方が無い。私はガックリと肩を落とした。しかし、諦める訳にはいかない。何とか彼女に私の愛情を分かって貰わなければいけない。


 私は彼女を必死に説得した。あの日の感動を語り、彼女をいかにして愛しているかを語った。求婚の事情を語り、直接の求愛が出来無かった事を言い訳し、だが自分は君の為に懸命に努力したのだと訴えた。


 彼女がどうやらここの義理の両親に会えない事を不安がっている事が分かったので、何時でも会いに来られるようにする、と約束した。侯爵と話をしたというのは嘘だが、領地の境の通過許可を貰っているから何時でも来られるのは嘘ではない。


 他にも社交はしなくても良い、狩りには自由に行っても良い、キンググリズリーも竜でさえも狩りに行くなら協力するなど、彼女が好みそうな条件を並べ立てた。これらはその気はあっても実現出来るかは分からない約束だったが、彼女の気を引くのに必死だった私は何の保証も無く約束した。


 そうして漸くラルフシーヌから婚姻の承諾を引き出したのである。私は思わず彼女を抱き締めた。だが、この時の不誠実な口からの出任せの数々は、後々まで私を苦しめる事になるのである。



 私達は3日後に出発が決まった。ラルフシーヌは出発準備と友人への挨拶回りに忙しくろくに話す間も無かった。だが、慌てる事は無い。私達はこれからずっと一緒なのだから。


 出発二日前、客間にいた私はベッドに横になっていた。ここに来るまでの道中はなかなかの強行軍で、婚姻の承諾を得てホッとしたからか疲れが出て寝ていたのだ。藁を詰めたベッドは少し動くとガザガサと音がした。


 と、ドアがノックされた。私が「はい」と言うと、ドアが開き、キックス男爵が顔を覗かせた。そして柔和な声で声を掛けて来た。


「疲れているところ、悪いね。ちょっと付き合ってくれないかな?」


 断る理由は無い。私は立ち上がり、彼に付いて居間に入った。


 テーブルに付くと、キックス男爵が瓶とガラスのコップを持って来た。コップは二つ。私の前に一つを置く。そして瓶から金色の液体を注いだ。匂いからすると蜂蜜酒だろう。


「これはね。ラルが作ったんだよ」


 私が驚くと男爵はクククっと笑った。


「森で蜂の巣を見付けてきてね。持ち帰って仕込んだんだ。沢山作って、殆どは売ってしまったんだけど、頼んで一本貰ったんだ」


 まぁ、私は殆ど呑めないんだけどね。と言いながら、自分のコップをちょっと舐める。


「・・・宜しいのですか?そんな大事なお酒を」


 ラルフシーヌが帝都に嫁入りすれば二度と作られないお酒である。しかし男爵は舐めただけなのに少し頬を赤くしながら言った。


「構わないよ。呑まない酒には価値が無いもの。それに」


 男爵は心底楽しそうな顔で呟いた。


「娘の旦那と呑むのが夢だったんだ」


 私は胸が詰まるような気分がした。


 そうか。私は重大な過ちに気が付いた。私がラルフシーヌを娶る事で、男爵夫妻は可愛い義理の娘を永遠に失う事になる。私は侯爵の許可を得る事ばかり考え、ラルフシーヌや義理の両親たる男爵夫妻の事情をまるで考え無かったのである。ラルフシーヌが怒るのも当たり前だ。


 男爵夫妻は長年愛し慈しんだ娘を、自分達の預かり知らぬ事情で突然失う事になる。どんなに驚き、寂しい事だろう。私は思わず言ってしまった。


「・・・すいません」


「謝る事じゃないよ。めでたい事さ。御館様が選んだ男なら間違いは無かろうよ。あれで、御館様の人を見る目は確かだ」


 そう言って呑めない酒を口に含んだ男爵は、ラルフシーヌについての思い出話を始めた。


「ラルが最初に家に来た時は、まだ小さくて、山羊の乳で育てたんだよ・・・」


 最初は流石に戸惑ったそうだ。それはそうだろう。主君からその娘の幼子を預かって困惑しない方がおかしい。しかしカリエンテ侯爵が「将来平民に嫁に出すつもりだし、お前の娘だと思って育てて良いから」と言われたので、遠慮無く平民の娘として育てる事にしたそうだ。


 ヨチヨチ歩きのラルフシーヌに庭や森で草木の名前を教える事から始め、走れるようになると森で山菜やキノコの採り方、罠で鳥や小動物を捕る方法を教えた。最初に捕った鳥を誇らしげに掲げた笑顔を今でも覚えているという。夫人について家事も学び、10歳までには料理洗濯裁縫全て出来るように仕込んだのだとか。


「まぁ、段々腕白で手が付けられ無くなってしまってね。悪さをする度に拳骨を落としたり尻を叩いたりしたものさ。その程度じゃ止まらなかったけどね」


 でも正義感が強くて優しい子で、近所に戦傷で脚が不自由な元兵士がいたのだが、体術や格闘を教えて貰いながら、その元兵士の畑仕事を手伝ったり、近所の女性が病気になった時には一生懸命看病し、甲斐無く亡くなってしまった時には大泣きしたりしたらしい。


 長ずるに従って近所の悪ガキのボスになって領地中を駆け回り、それはもう男爵夫妻が頭を抱えるような悪さをしまくったらしい。


「ただ、弱いもの苛めだけは絶対にしなかったね」


 そう言うキックス男爵の顔は誇らしげだった。


 狩りに凝って一人で熊を倒すまでになり、プロの狩人が一目置くレベルになった。だが、ある時、数日に渡って泊まり込みで森に籠もった時だけは、それだけは絶対ダメだと禁止したらしい。


「まぁ、あの子なら大丈夫だと思うんだけど、私達が、ね」


 心配だし寂しいしね、と声には出さなかったが確かに聞こえた。


 ふと、居間の外、台所の辺りから何か音がした。すすり泣きの声だ。男爵夫人が私達の話を聞きながら密かに泣いているのだろう。


 私はたまらなくなり、蜂蜜酒を一息に飲むと、男爵にテーブルに手を突いて頭を下げた。


「ラルを、必ず、幸せにします。全能神に誓って。お二人に約束します。だから、私とラルフシーヌとの結婚をお許し下さい!」


 キックス男爵は殆ど減っていない金色の蜂蜜酒を揺らし、真っ赤になった頬を揺らして笑った。


「心配は、していませんよ。あなたならラルを幸せにしてくれると信じています。・・・殿下」


 余りの衝撃に私は思わず目を見開いた。とっさには反応出来ない。硬直したまま男爵を見詰めていると、男爵はまたフフフっと笑った。


「おや、当たりですか?私の勘もまだまだ捨てたもんでは無いようだ」


「か、勘?」


「そこの、侯爵邸には歴代皇帝陛下の肖像画があるのですよ。その何人かと貴方は良く似ていらっしゃる。で、カマを掛けさせて頂きました」


 私は生唾を飲み込んだ。そんな事は初めて言われた。歴代皇帝の肖像画なら帝宮にもあちこちにあるのに。


「わ、私は皇子になるつもりはありません」


「そうですか。それは助かった。ラルはお妃様なんて、柄じゃありませんからね」


 キックス男爵は半分寝ているように頭を揺らしながら呟いた。


「まぁ、でも、あの娘ならお妃様でも何て事無くやって見せるでしょうがね。何せ・・・」


 私達の自慢の娘ですから。と口だけが動いた。


 バタバタと音がして、ラルフシーヌが帰って来た。居間を覗くなり、あー!と叫んだ。


「父ちゃんに酒呑ませたの?駄目じゃない。すぐ寝ちゃうんだから!」


 そして男爵が手に持ったままだったコップをヒョイと取ると、残った蜂蜜酒をグイッと飲んでしまった。


「ほら、父ちゃん。起きて。部屋で寝てよ」


 男爵に肩を貸す、というか大事に抱きかかえるように立ち上がらせると、寝室へと連れて行った。私はその様子を居たたまれない思いで見送るしか無かった。



 出発前日は何だか大騒ぎになってしまった。カリエンテ侯爵領全体にいるラルフシーヌの友人達が別れを惜しむ宴を開いてくれる事になったそうなのだが、見ている内に段々と規模が拡大し、最初キックス男爵の家の庭で準備を始めたものがいつの間にか領都の広場が会場になり、人もドンドン増えて全員が酒と料理を持ち込み、飾り付けしながら既に呑み始めて、昼過ぎには既に大宴会、お祭りになってしまった。


 ラルフシーヌは頭を抱え、私は呆然としたが、さぁ、準備だ!とそれぞれ私達は女性達に引っ張られた。私は近くの家に連れ込まれると、あっという間に着替えさせられた。どうやら騎士の礼服だ。私も持っている。少し古くて緑色が褪せていて、サイズがやや小さくて窮屈だ。顔も髭を剃られ、髪も撫でつけられた。そして「よし!イイ男!」と送り出されると、そこに想像もしなかったモノが待っていた。


 白と紫色の花嫁衣装を着たラルフシーヌである。簡素だが、清純で可憐で目もくらむ程美しい。周囲の女性達はその美しさに感激の声を上げ、男性達は涙を流して悔しがっていた。


 足首まである白いロングドレス。肩から紫色のストライプが真っ直ぐ落ちている。裾や広がった袖口には繊細な刺繍が施されていた。頭にはやはり刺繍が入って縁にレースを縫い付けたヴェール。手には小さな花束を持っていた。素朴だが温かさを感じる花嫁衣装だ。誰かから借りたものだという。


「全くもう!動きにくいったら。嫌だって言ったのに!」


 と言いながらもラルフシーヌは満更でもなさそうだった。笑いながらクルッと回って裾が翻るたび、歓声が湧き上がり私の心は騒いだ。


 二人並んで広場に押し出されると、一千人しかいないはずの領都の広場にどう見ても数千人の人がいるのが見えた。近隣の村からもこぞって集まったものらしい。既に酔っ払っており、私達を見てあげた歓声は怒号に近かった。すぐさま揉みくちゃにされ、小突かれたり蹴られたり抱きつかれたりする。私もラルフシーヌも苦笑しながらしつこい連中を張り飛ばしたり転がしたりした。勿論手加減はした。


 広場の中央には神官服を着た司祭と思しき男性がいた。見る間に呑まされて足元が怪しくなってしまった彼に呂律の怪しい祝福を授けられる。本来なら祝福の後は誓いの言葉と誓いのキスだが、これは二回もやるものでは無いから省略した。が、観衆が許さない。途端に野次が飛ぶ。


「誓いのキスしろ!キス!」


「出来るわけ無いでしょ!こんなところで!」


「なんだ、親分、逃げるのか?」


「意気地無しめ!」


「何だと!ならやってやるわよ!」


 とラルフシーヌは私に真っ赤な顔で向き直ったのだが、幸い周囲の女性が止めてくれた。


「こら!誓いのキスは本番にとっておきな!」


「あんたたちも!つまんない事でラルを挑発するんじゃないの!」


 そのまま私達はもみくちゃにされながら宴の席に連れて行かれ、木で出来たジョッキを持たされ、なみなみとビールを注がれた。


「ラルとセルミアーネの結婚を祝して!」


 怒涛のような乾杯の声が響き渡り、ジョッキをめちゃくちゃにぶつけられてビールが飛び散った。私がジョッキを開けるとすぐに四方八方からビールだのワインだのが注がれてジョッキは一杯にされる。ラルフシーヌの前にも大量の料理が積まれ、ひたすら呑まされていた。


 祝福の声や励まし、揶揄いの声が飛び、呑み比べをしたり芸を見せたりしながら笑い、歌い、踊っている内はまだ良かった。宴がたけなわになり、私を除いた(私は酒に殆ど酔わない)全員が泥酔状態になると雲行きが怪しくなって来た。


 女性たちがラルフシーヌに抱き着いて泣き始めた。


「行かないで!ラル!」


 うわーんと泣き出す少女に困った顔をするラルフシーヌ。その背中に別の女性が抱き付き泣き始める。その周りでも大勢の女性がおいおいと泣いている。更に男共が叫び始めた。


「ラルを連れてなんか行かせねぇ!」


「親分を守れ!」


 そして当然私を睨んで来るわけだ。


「やっちまえ!」


 何人もの男が私に殴り掛かってきた。だが、ハッキリ言って素人の平民でしかも泥酔している。相手ではない。私は十二分に手加減しながら全員を放り投げ、平手打ちし、足払いで転がした。


 だが、私にやられた男達は怒るどころか、私を見上げて口々に言うのだ。


「ラルを宜しくたのむぞ!」


「親分をお願いします!」


 大の男が泣きながら私に懇願するのだ。私はラルフシーヌを帝都に連れ去るというのがこの地の人々にとってどういう意味を持つのかを嫌という程理解した。


 最終的には呑まされ続けて流石に泥酔したラルフシーヌが自分も泣き始めた為、私はラルフシーヌを女性達から引き剥がして逃げ出した。このままだとラルフシーヌが「私も本当は行きたく無い!」と叫びかねなかったからだ。そんな事になったらここにいる人達に何としても阻まれて、私達はここを出られ無くなるだろう。


 半分くらい寝てしまったラルフシーヌを横抱きにしてキックス男爵の家に駆け込むと、先に帰って来ていた男爵が声を出して笑った。


「ちゃんと花嫁を抱きかかえて帰って来たね。そのまま寝室に行っても良いぞ」


 大変心惹かれる誘惑だったが、自重した。私はラルフシーヌを彼女のベッドに下ろすと、男爵夫人にラルフシーヌの世話を頼んだ。


「服は、どうしましょう。この礼服もですが、ラルの衣装も。大分汚れてしまいましたが」


 何しろ人混みに揉まれ、宴会で酒が飛び散り、格闘までしたのだ。かなり汚れている。しかしキックス男爵は笑って言った。


「その礼服はベッツの奴だろう?使う当てもないのに仕舞い込んでた奴だから気にしなくても良いよ。ラルの衣装は妻が作った家の奴だからもっと気にしなくて良い」


 衝撃発言に私は愕然とした。だが男爵は嬉しそうに笑いながらパイプを吹かしていた。


「花嫁衣装は女の子が5歳になったら作り始める習わしだ。まぁ、急な話だから昨日は徹夜したみたいだがね。着せられて良かったよ」


 私はこの二人を帝都の結婚式に迎えられない事が痛切に苦しかった。男爵こそがラルフシーヌの手を取って神殿を歩くべきだろう。私は彼から、ラルフシーヌの手を受け取りたかった。


「必ず、必ずラルを連れてまた来ます」


「そうかね。ならその時はラルの子供が抱いてみたいね」


 男爵は私を真っ直ぐに見詰め、頭を下げた。


「ラルを頼むよ。セルミアーネ」



 翌日早朝、私達は旅立った。ラルフシーヌは男爵夫妻と抱き合って別れを惜しんだが、男爵夫妻は穏やかに笑って涙を見せなかった。ラルフシーヌは何度も何度も振り返って馬上から手を振っていた。寄り添いながらラルフシーヌに手を振り続けるキックス男爵夫妻の姿が、今も目に焼き付いて離れない。


 結局私はキックス男爵との約束が守れず、それどころかラルフシーヌとの約束も殆ど守る事が出来なかった。この地を漸く再訪出来たのはこれから数十年も後の事になる。


 








 

 


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