猫の手屋

磯風

Ep.1 残業続きのサラリーマン

 その日もいつものように大量に押しつけられた仕事に埋もれ、あと五分で終電が出るという深夜。

 もう何日、こんな日が続いているだろう。

 同じ部屋にいる何人かも、みんなうつろな目で怠そうな上半身をやっとの思いで動かしてカチャカチャとキーボードを打つ音だけが聞こえる。


 あ、ひとり、寝落ちた。

 ああ……今日も会社ここで夜明かしだろう。

 多分、このままじゃ死ぬなぁ、俺。


 そんなことを思っていた俺の目に、机の上に置いてあったスマホの液晶が目に入った。

 あれ?

 切ってあったはずなのに、電源入ってる……

 その画面に目が止まる。


『猫の手、お貸しいたします』


 ……新手のなんでも屋とか、そういう奴かな?

 猫のイラストが可愛い広告だが……クリックしたら詐欺ってのもよくあるし……ああ……眠いなぁ。

 本当に猫、手を貸してくれるのかな……

 画面を消すつもりだったのに、指がその広告に触れてしまった。


『ありがとうございます。すぐに伺います』


 えええ〜っ?

 マジで詐欺広告だったのかなぁ。

 やべぇかな……これ……


 そう思っているとふっ、と画面が消えた。

 うわーどうしよ。

 次に開いたら変な請求とかされてたら……ううう、消費者センターに行ってる暇なんかないってのに。


「お待たせしましたにゃ」

 にゃ?


「おやおや、この会社はとんだブラックですにゃ。これをやれば、いいんですかにゃ?」

 にゃにゃ?


 猫だ。

 俺のデスクに、キーボードを叩く猫がいる。

 座った俺の太腿に二本足で立って、前足の肉球で器用にカチャカチャと仕事を進める……猫。


 そっか。

 俺、寝落ちたんだな。

 うん、夢を見ているんだ。

 夢の中でも仕事をしてるなんて、なんという悪夢だ。

 でも、猫は可愛い。


「夢じゃないですにゃ。『猫の手屋』に依頼くださったから、来たんですにゃ」


 そっか、手伝いに来てくれたのか。

 うん、ありがと。

 なんか癒されるから、このまま見ててもいいかな。


「夢じゃにゃいって……仕方ないですけどにゃ。こう言っちゃにゃんですが、この会社、絶対に辞めた方が良いですにゃ」

「そうかな……?」

「つらいのに『辞めたい』って思えないのが、一番危険ですにゃ。まぁ、だいたいそういう人にしか、うちの広告は見えにゃいみたいにゃんですけど」


 追い詰められても、その自覚なく壊れる寸前の奴……にしか見えない広告ってことなのかな。

 ははは、かなりヤバイじゃん、俺。


「そうですにゃ。相当ヤバイにゃ。でも、このまま辞めず死なずに頑張ってもらえる方が、僕にはいい顧客だにゃ」


 優しいのか営利主義なのか判らんな。

 カチャン、とエンターキーが押される音がして、猫がこちらをくるりと振り向いた。


「終わったにゃ」


 え?

 マジかよ。

 確認したら全部、綺麗に終わっていた。

 ……あり得ねぇ。

 やっぱ、夢だ。

 終わる量じゃなかったのに。


「お客さん、これでこの会社でやってることにゃんて、あなたじゃなくっても良いって判ったですかにゃ?」


 う……そうだ。

 俺は『俺でなくてもいい仕事』を、ずっとやってきたんだ。

 でも、それくらいしか……仕事がなかったんだよ。


「そういう仕事でも金が貰えりゃかまわにゃいって考え方の人にゃら、いいと思いますにゃ。でも、お客さんは……多分、そういう人じゃないにゃ。だから、猫の手を貸しに来たのにゃ」

「じゃあ……どうしたらいいと思う?」

「未来のことまで、猫の手を借りようとしちゃダメにゃ。お客さんじゃ絶対に支払えないと思うにゃ」


 支払い能力があったら、未来のことでも借りられるのか……猫の手って。



 三日連続で迎えた会社での朝日を浴びながら、俺は仕上がった仕事を眺めていた。

 どうやら、夢じゃなくって現実だったみたいだ。


 俺があのままやっていたって、朝までどころかきっと今日の夜までかかっても終わらなかっただろう。

 やってる間にどんどん他から回ってきた仕事が積み上がっていくんだから、終わるわけがない。


 でも、猫はたった数時間で、俺なんかより完璧に仕事を終わらせてしまった。

 ああ……俺、猫以下なんだな……

 うん、もう、いいや。


 俺は溜まりに溜まって、一ヶ月以上になっている有給休暇と振替休暇の申請書を書き、ついでに辞表も書いて上司の机に置いた。


 陽の光の中、会社をあとにして通勤で駅から流れ込んでくる人々と逆方向に歩き出す。

 朝が清々しいなんて思ったのは、いつ振りだろう。



 どうやら、辞表は受理されたようだ。

 だが、退職日は俺が辞表出したその日になっていたので、有給休暇と振替休暇はなかったことにされたらしい。

 ま、いいか。

 もう関わりたくない。


 今、俺は、猫カフェでバイトをしている。

 このカフェの名前が『にゃんこの手』だったので……勢いでバイト募集に飛びついたのだ。


 ランチ休憩で、外食まで出来る労働環境、素晴らしい……!

 収入は減ったけど、前の職場じゃ使う時間がなかったせいで蓄えはそこそこある。

 次の仕事は、絶対に後悔しないものを選ぼう。


 ……スマホの画面が、光った。

『猫の手屋のご利用ありがとうございました』

 どうやら支払い確認の案内だ。

 どれどれ……え?


 金額はたった、五千円だった。


『ご利用時間とご利用内容により査定された金額です。下記の口座にお振り込みください』


 ……あの会社での俺の仕事、その程度の価値だったのか。

 気付かせてくれてありがとうな、猫の手屋さん。

 スマホのネットバンキングで、そのまま支払いを終える。

 もう、会えないのかなぁ、あの猫には……


「まったく、にゃんで次の仕事が猫カフェなんですかにゃ!」


 うおっ!

 吃驚したっ!

 店の前の植え込みから姿を見せた『猫の手屋』は、もの凄く不機嫌そうだ。


「我々の可愛さだけを利用している仕事だにゃんて、猫の沽券に関わりますにゃ!」

 

可愛さ以外の有能さを仕事にするべきですにゃのです! と、猫の手屋さんはご立腹だ。

 そんな姿を可愛い、と思ってしまうのは失礼なのかな。


「会えてよかったよ、猫の手屋さん。ありがとうね、手を貸してくれて」

「……仕事ですにゃ」

「また会えると嬉しいんだけどな?」

「それは、お客さん次第ですにゃ。でも……リピーターも歓迎ですにゃん」


 そう言うと、すっ、と猫の手屋さんは植え込みに隠れた。

 またどこかで猫の手を借りたい人からアクセスがあったのだろうか、どこにも居なくなってしまった。


 猫の手を借りた結果、俺は少しだけ前を向くことができるようになった。


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