君を忘れない
牧田ダイ
第1話
机から黒い液体が滴っている。
ベージュのズボンには大きなシミができている。
机の上ではコーヒーを被ったノートPCがバグった画面を表示している。
「マジかぁ……」
ため息をついて横を見ると、この状況を作りあげた犯人が本棚の上で顔をこすっている。
飼っている猫のシオンだ。
のんきな様子を見ていると叱る気も失せた。
椅子の背もたれに体をあずけて天を仰ぐ。
早く服を洗わなければ落ちにくくなってしまう。
しかし、そんな気にもなれない。
自分の体が鉛のように感じられ、動くことができなかった。
恋人のかおりが死んでどれくらいたったのだろう。
かおりは家が近所で小さいころから一緒に遊んでいたいわゆる幼なじみというやつだ。高校の頃から付き合いはじめ、結婚を考え始めた時期だった。
二人で出かけているときにかおりは倒れた。
病院に運ばれ、告げられたのは余命が一か月しかないということだった。
「もぉー、何で私より
気丈に振る舞う彼女の前で僕はうなだれることしかできなかった。
一か月後、余命宣告どおりにかおりは死んだ。
死ぬ直前にかおりから託されたのが彼女が飼っていたシオンである。
かおりを失い、自暴自棄になり、命を捨てようかとさえ考えた僕が思いとどまったのは、シオンの存在があったからである。
シオンと暮らしていると深くえぐれた傷は少し和らいだ。
それでも何に対しても無気力で、感情なんてものは失っていたようだった。
気づくと時間は三時になろうとしていた。
そういえば朝から何も食べていない。
冷蔵庫には何もない。
仕方がないのでコンビニに買いに行くことにする。
ついでにこの服はクリーニングに出してしまおう。
服を着替えて玄関に向かい、ドアを押した。
扉が開いた瞬間、シオンが隙間から飛び出した。
「あっ! シオン!」
急いでシオンが走っていくのを追いかけた。
曇った空の下を息を切らしながら走る。
シオンを見つけては逃げて、見失うというのを何回か繰り返していた。
「どこまでいくんだよ……」
ぽつりぽつりと雨が降り始めた。
住宅街からは離れた場所まで来ていた。
雨が本降りになったころ、シオンに追いついた。
「はぁっ、はぁ……、やっと追いついた……」
シオンを見ると、一点をじっと見つめている。
その方向をみて、息を呑んだ。
墓地である。しかもここにはかおりのお墓がある。
シオンは再び走り出し、墓地の中に入っていった。
状況がよくわからず、追いかけるにも歩くのがやっとだった。
かおりのお墓の前にシオンはいた。
お墓をじっと眺めている。
僕もお墓を眺める。
納骨以来、ここに来るのは初めてだ。
来たい気持ちはあったが、来ると自分を保てなくなる気がした。
雨が弱まってきた。
シオンがニャーオと鳴いた。
「やっと来てくれたんだねー」
声の方向に顔を向けずにはいられなかった。
この声は間違えるはずがない。
そこにはかがんでシオンを撫でるかおりがいた――。
「か、かおり……、なん、で……」
「だって全然来てくれないんだもん」
言いながらかおりがシオンを抱きかかえて立ち上がる。
「幽霊って暇そうなイメージあるでしょ? でも以外と忙しいんだよねー。書類とかあるんだよ? 信じられないでしょ」
僕には今の状況すら信じられない。
「それで猫の手も借りたいくらい忙しかったの」
かおりがシオンの前足を招き猫のように持ち上げる。
「だから借りちゃった」
状況が上手く飲み込めないが、ただ一つ分かるのはかおりが目の前にいることである。
幽霊とかなんとか言っていたがそんなことは関係ない。
そこに彼女がいるのだ。
そう思った瞬間涙があふれてきた。
彼女が死んで止まっていた感情が一気に動き出したのだ。
「もぉー、泣かないでよー」
泣きじゃくる僕にかおりは笑いながら言った。
そうしてしばらく僕の背中をさすってくれていた。
涙がおさまってきた僕にかおりはやさしく問いかける。
「落ち着いた?」
僕はうなずく。
口を開けばまた涙があふれそうだ。
「そっか……」
彼女は深呼吸をして、僕にくるりと背を向けた。
「本当はもっと一緒にいたいけど、そろそろ行かないといけないんだ」
「行くって……、どこに?」
涙声で聞く。
「あの世に決まってるじゃん」
あの世という言葉が嫌というほど現実的に思えた。
「嫌だよ……。もうかおりと離れたくない」
「だから私も嫌だよ。でも、行かなきゃ……。これが……、本当のお別れだよ」
嫌だ。もう失いたくない。
それを言葉にする前にかおりが続ける。
「行く前に言いたいこと全部言うね。悟と過ごした時間、本当に楽しかった。どの時間も全部私の宝物。だから、それをくれた悟にはこれからも幸せでいて欲しい。シオンと一緒に私のこと忘れちゃうくらい幸せに過ごしてほしい。これが私の言いたいこと……」
かおりの肩が震えている。
「あと……、最後にもう一つ……」
かおりがこちらを振り返る。
「悟と出会えてよかった! 悟……、ありがとう」
かおりは笑っていたが頬には涙が伝っていた。
また僕の涙があふれだす。
「じゃあね……」
かおりがまた僕に背を向ける。
かおりの体から小さな玉のような淡い光がいくつか出てきた。
時間がない。
僕も伝えなければ。
あふれる涙と嗚咽を必死にこらえ、声を出す。
「かおり!」
かおりがこちらを振り返る。
「僕も……、かおりといた時間が何よりも楽しかった! 幸せだった! 君を失って、生きる意味を見失った……。でも君が残したシオンが僕を引き留めてくれた。僕はシオンと必ず幸せになってみせる! 君が心配しなくてもいいように絶対幸せになるから! 見守っていてほしい……」
かおりは優しい笑顔で強くうなずいた。
光の量がどんどん増えていく。
それに伴ってかおりの体がどんどん薄くなっていく。
まだ言うことがある。
「最後にもう一つ……、君のことは絶対に忘れない。この先どんなことがあっても、君のことだけは絶対に忘れない……!」
かおりの目からは大粒の涙がこぼれていた。
もう体は消えかかっている。
「うれしい……。私……、最後まで幸せだ……」
かおりの目を見て僕は強くうなずいた。
光の量は減っていき、かおりの姿が見えなくなると、最後の光がゆっくりと天に昇って消えた。
空を見上げるシオンを抱きかかえるとシオンは喉をゴロゴロと鳴らした。
雨はあがり、雲の隙間には夕焼けの色が差しこんでいた。
君を忘れない 牧田ダイ @ta-keshima
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