第一章 危うきこと神獣の尾を踏むが如し①

 ももの甘いかおりが風に乗り漂ってくる。その香りにさそわれるかのようにかざった少女達がとうどうかいろうに集まっていた。桃果堂はとうせんがみまつっており、その女神の力が宿るとされる桃の木を守るようにしゆりの回廊が造られている。

 だんは静かな時を刻んでいるのだが今ははなやかでかぐわしい空気に満ちていた。いんこくではによにんのみ十五になる年に桃果堂にて成人のしきが行われるからだ。めいりんは十五歳、今まさに成人の儀式に参加していた。

 明鈴は小柄な体格でゆるやかに波打つかみこしまであるが、儀式のために今日はれいい上げていた。たん色を基調とした晴れの衣装は白いはだによく似合う。髪やひとみ胡桃くるみ色で、これはこくの王族だった祖母のえいきようを受けている。明鈴はへいぼんな見た目だと自分では思っているのだが、周りからすると感情をいろく映すつぶらな瞳、小動物的な動きも相まって、構いたくなるうさぎのような愛らしさを持っていた。

ひまねぇ。どうせ桃仙のおとなんていないんだから、みんないつせいに食べればいいのに」

「そうよね。しよみんの儀式が終わるのを何で待たなきゃいけないのかしら」

 となりの貴族のむすめ二人がつまらなそうにを垂れ流していた。

 この儀式は成人を祝うと同時に、五百年に一人現れると言われている『桃仙の乙女』を見つける役割も担っている。桃仙の乙女に選ばれし者が桃果堂に祀られている桃の木の実を食べると力がかくせいするらしい。だから一人ずつぎんするために神官の前で桃を一口食べるのだ。そりゃ時間もかかるだろう。でも、貴族は優先して儀式を行わせてもらっているのだから、少し待つくらいまんすればいいのにと心の中だけで言う。からまれたら怖いので口に出す勇気はないけれど。

 あと残るは小柄な町娘が一人だけ。神官達からもこれで儀式が終わりだとあんするような空気がかもし出されていた。だが、彼女が桃をかじったたんきようれつな光が一帯を照らしだす。そのまばゆさに目がくらんだ。

「桃仙の乙女が現れたぞ!」

 神官の声がひびいたと同時に、明鈴はかみなりに打たれたようなしようげきおそわれた。

 頭の中に見たこともない風景や人物の映像が次々に浮かんでくる。いったいどういうことなのだろうか。明鈴の過ごしてきた中で行ったことも出会ったこともないはずなのに、えもいわれぬなつかしさを感じる。

 これは桃仙の乙女が現れたから起こったことなのだろうかと思い、隣にいる愚痴を言っていた二人を見た。しかし、桃仙の乙女を見つめてぜんとしているだけで、明鈴のようにまどっている様子はない。

「あ、あのぉ、何か起こってますか?」

 思い切って声をかけるも、明鈴に近い方にいた娘がけんにしわを寄せた。

「見て分からないの? 桃仙の乙女が現れたって言ってるじゃない」

 何故なぜおこられた。せぬ。

 けれど、このはんのうのおかげで彼女達には自分のような映像の出現はないのだと分かった。なんで自分だけなのかとあせりながら、必死で頭の中を整理しようと大きく息をく。

 浮かんできた映像の中で一番多く出てくる人物がいた。髪や目の色はちがうし服装なんかも全然違う。それなのにばくぜんと自分だという感覚があった。本当に不思議だけれど。

 映像の中で明鈴(仮)は日本という国でここよりも便利で快適な生活をしている。でも会社ではおにのように仕事を押しつけられ過労のあまり意識こんだく、めまいを起こし階段を踏み外して……ここから続きがない。どうやらそこで人生を終えてしまったのだろう。

 え、なにこれ。普通に可哀かわいそうなんですけど。

「これって私の前世?」

 ぽつりとつぶやきがこぼれた。自分という感覚があっても、今の明鈴の過ごしてきたおくとは違いすぎるのだ。こうとうけいとはいえ前世の記憶だと考えればしっくりくる。

 おどろきすぎて手は震えるし、あせがとまらなくなってきた。今日はしきに帰ったら成人祝いのごちそうが待っていて、それを家族と食べて楽しく過ごすだけのはずが、なんで余計なちん現象が起こってしまったのだ。なかったことにならないかなと願うも、頭の中からこの記憶が消える気配はない。むしろ時間がつにつれてせんめいになっていくような気がする。

 泣きそうな気分でまわりを見る。ひとり混乱する明鈴をよそに、桃果堂に集まった人々は先ほどと変わらず桃仙の乙女にくぎけだった。ふと明鈴は引っかかりを覚える。

 桃仙の乙女って、まさかあの『桃仙の乙女』だろうか?

 首をかしげながら考える。よみがえった記憶の中に『ちゆうしんじゆうまき~桃仙の乙女は愛で世界を救う~』という乙女ゲームがあるのだ。仕事のつらさを忘れて心のうるおいを求めるため、このゲームをやりこんでいたから間違えようが無い。

 桃仙の乙女が出現するこの世界は明らかに乙女ゲームとこくしている。ということは、もしや乙女ゲームの世界に転生してしまったということなのか。にわかには信じられず頭をかかえた。

『中華神獣絵巻~桃仙の乙女は愛で世界を救う~』は十二支がモチーフになっており、それぞれの動物を祀る十二の国が舞台だ。そして各国の皇子ルートとかくこうりやくキャラルートが存在する中華風乙女ゲームである。

「あれ、ちょっと待って。うそ、ここ寅国じゃない?」

 ざあっと血の気が引いていく。

 まだ決まったわけではないし信じたくもないが、もしも転生していたとしたら、なんで寅国なんだろう。正直なところ別の国に転生したかった。卯国とかじゆつこくとか!

 何故なら寅国の攻略キャラである皇子のたいがどうしても好きになれなかったのだ。やみかかえすぎだしすぐにしよけいしようとするし愛の形がかんきんだしもう怖すぎる。むしろ大牙へのヒロインの気持ちも極限状態による生きるための思い込みじゃないだろうかと疑っていたくらいだ。ほかのルートはそれぞれりよく的なこい模様で大満足だっただけに、大牙ルートは消化不良で「こんなの恋じゃない!」とエンディングのしゆんかんさけんでしまった。

 しかし、すでに寅国に生を受けている。いやだけれど生まれは変えられないから、そこは断腸の思いで我慢するとしよう。となれば、仮にゲームの世界に転生しているとして自分の立ち位置はどこだろうか。ヒロインは桃仙の乙女だからもちろん自分ではない。明鈴自身は平々凡々で特に目立ったとくちようはないし、あえて言えば兄の季ゆうじゆんゆうしゆうわたりもうまく皇子の側近になっている……って、あれ?

にいさまって隠しルートの攻略キャラと名前もかたきも同じ。ということは私って……!」

 明鈴は手汗だけでなくもう全身から冷や汗があふれ出てくるのがわかった。自分の立たされているポジションに思い至ったからだ。

 たいいえがらよりはおとるがそこそこ位の高い家に生まれており、父はしようしよしように属するりくの長官であるこう尚書だ。また兄は優秀さが認められて皇子の学友にばつてきされた。そのまま側近としてつかえているが肩書きとしては殿でんちゆうしようの次官であり、乙女ゲームの設定と同じだ。明鈴の設定も同じだとすれば、ゆくゆくせいじよに抜擢されるはずである。

「確か、この正妃様が問題なのよ」

 正妃はいわゆる悪役ポジションでヒロインをいじめる。それがもとで皇子のげきりんれて処刑されてしまうのだが、侍女だった明鈴も連座して処刑されるのだ。そう処刑されてしまうのだ、なんてひどい運命!

 前世もろくなもんじゃなかったけれど、もしここが乙女ゲームの世界ならば転生してもろくなもんじゃないという現実にぼうぜんとする。ヒロインでも悪役の正妃でもなくモブの立ち位置なんだから、モブならモブらしく平凡なモブライフを送らせてくれ。

 いや、まだ受け入れるな。あきらめたら終わりだ。ここが処刑エンドをむかえる乙女ゲームの世界だなんて簡単に認めてたまるか、と叫びたかった。

「いや、何あれ!」

 けれど、叫び声をあげたのは明鈴ではなかった。桃果堂に集まった少女達がある一点を指し示しながらさわぎ始めたのだ。

「何か黒い動物がいるわ!」

「あの大きさ、耳と長い尻尾しつぽもあるしねこじゃない?」

うそ。なんてきつなの!」

 神官達が桃仙のおとを守るように囲み、少女達もおびえながら神官達の方へ集まっていく。

『猫』という言葉に明鈴は目を見開いた。猫、それはもふもふとしたいとしい生き物。でるも良し、引っかかれたら感謝をささげ、たまにおとずれる構って行動にいやしをもらう至高の存在だ。だが、明鈴がこの世界で生きてきた中で猫と出会ったことはない。

 実はきらわれているせいでほとんど存在していないのだ。猫は十二支の仲間に入れなかった上にねずみうらんで攻撃したので悪い動物だとされ、見つかるとはいじよされてきた歴史を持つ。だから猫が飼われることはないし、も見たことはなかった。

 今までの明鈴にとって猫はただのがいねんだった。けれど記憶が蘇った今は違う。記憶の中で愛らしさをふりまく猫達が、これでもかとゆうわくしてくるのだ。

「ねこ……本当に?」

 吸い寄せられるようにひとがきをかき分けて前に進む。

 どんな猫だろうか。でも色が黒いようだから心配だ。黒は『こくじゆう』と呼ばれるきようぼうな存在をほう彿ふつさせるから。猫であるうえに黒いなど最高にみ嫌われる存在といえるので、今騒いでいる人達に酷いことをされなければいけれど。

 明鈴がやっと人垣の間から黒っぽいかたまりを視界に入れたときだった。

「やだ、じっとこっち見てる!」

 猫らしき動物に近い位置にいた少女が、きようのあまり石を投げた。すると、まわりの少女達もられるように次々と石を投げ始めてしまう。

 なんてことをするのだ! 至高の存在だぞ、ばちたりめ!

 そもそもおのれよりも小さな存在を傷つけるなど、人として言語道断な所業である。明鈴は石を投げた子達をにらみ付けた。だが逆に「何か文句でも?」とばかりに睨み返されてすごすごと目をそらす。小心者な自分が情けない。

 結局、猫らしき動物は桃果堂の奥に広がる竹林へと走り去っていった。

 あの子はだいじようだろうかと心配になる。この世界で猫が嫌われていようが、前世では大の猫好きだった。家には三びきの猫がいたし、毎日もふもふしていたし、猫吸いしていた。かんしよくを思い出したたん、禁断しようじようおそわれる。

「もふもふしたい、すーはーしたい」

 明鈴の口からよくぼうれる。

 でも、欲望を満たすよりもあの子の安否をかくにんする方が重要だ。石を投げられていたのだしをしているかもしれない。明鈴は騒ぐ集団をしりに、竹林へさがしに行くのだった。


 ちゆうごしで目線を低くしあの子を捜す。

「猫ちゃーん、出ておいで。こわくないよ」

 猫らしき動物と呼びかけるのもおかしいので、もう猫と呼ぶことにした。

 桃果堂での騒ぎ声が小さく聞こえるくらい進んでくると、大きな石のかげにうずくまっている黒い毛玉を見つけた。明鈴の姿を見つけるとうなり声を出し、全身の毛を逆立ててかくしてくる。

「怖い思いをさせてごめんね。もう大丈夫だから。ほら、おいで」

 ひざを地面につき低い姿勢になる。怖がらせないために目線を同じ高さにしたのだ。

 すると毛は逆立っているがうなり声は消えた。もう少しだ。

 猫は先ほどまで走っていたとはいえ、この場所でしばらくじっとしていたはずなのに呼吸があらい気がする。もしかしたらだつすい症状かもしれない。だけどあいにく水はないし、明鈴が持っているものと言ったら成人のしきでかじった桃だけ。そういえば……とおくり起こす。桃はほぼ水分なので、果肉だけなら猫に食べさせても大丈夫だったはずだ。

「ね、のどかわいてない?」

 猫がかじりやすいように桃の皮をむく。じゆうで手がベトベトになるが、気にせずにそのままゆっくりと猫に向けて差し出す。

「この桃、美味おいしかったから食べてみてよ」

 猫の逆立っていた毛がふっと落ち着いた。威嚇をといてくれたのだ。でもまだ動かない。しんぼう強く明鈴は待つ。片手を前に差し出しているので体重を支えるのはもう片方のうで一本、あまり体力がないのでかなりきつい。

 腹筋や腕の筋肉がふるえ出してきたころ、やっと猫が近寄ってきてくれた。ゆっくりと、でも確実に。そしておそる恐るといった様子で差し出した桃をかじった。

「はぅわ……」

 明鈴から一瞬言語が消えさり、なんとも形容しがたいおんがこぼれる。

 桃の果汁をなめ取るように、猫が明鈴の手をぺろっとなめた。そのやわらかくてちょっとざりっとする久しぶりの感触にほおが自然とゆるむ。

 存在してくれてありがとうと感謝を捧げたい。だれに捧げていのか分からないから、とりあえずこの世界を創ったといわれるがみに捧げておけばいいだろうか。本当にありがとう、この子に出会わせてくれて。

 かんもだえながら猫をじっくり観察してみると、前世の記憶にある猫より少し丸っこいしあしもがっしりしている。だがこの世界の猫を見たことがないので、ここでの猫はこういう姿なのかもしれないなと思う。

 全体的に灰色で、ところどころに黒いまだらがある模様だ。真っ黒ではないのだが、これでは確かに遠目だと全身真っ黒な動物と思われても仕方がない。この世界の人々にとっては恐ろしい姿だろう。だけど明鈴にとっては猫である時点ですべてが可愛かわいい。細身のれいな猫は美人さんだなと思うし、不細工と形容されるような猫でもあいきようがあってこれまた可愛いのだ。だからこの猫も黒っぽくて丸かろうが全力ででるべき対象である。

 そんな風に猫を見ていると、後ろ脚に傷があるのを発見した。黒っぽい毛のせいで、血がにじんでいるのがすぐに見つけられなかった。

「こっちへおいで」

 衣装がよごれるのも気にせず膝をずりずりとるように前進し、猫とのきよを少しだけつめる。すると、じいっと明鈴を見ていた猫もゆっくりとこちらに歩み寄ってきたのだ。うれしくておどりしたくなるけれど、下手に動くと怯えてしまうかもしれない。動くに動けないもどかしい時間。きっとハイハイをする赤んぼうを待ち構える親ってこんなじれったい気持ちなんだろう。

 そして、猫は明鈴の膝にポテッと前脚を置いた。

「うぅ……かわゅ」

 心を許してくれたのかと思うと感激で泣きそうだった。でも泣いている場合ではない。怪我の手当をしなければとなみだを必死に飲み込む。

「手当してあげるね」

 明鈴がそっと猫を撫でると、返事をするかのように「なーぅ」と鳴いたのだった。胸のあたりから温かさが体中にほわっと広がる。

 ふところからしゆきんを取り出すが、猫の脚に巻くには大きすぎた。前世を思い出した明鈴にとってはこの手巾がとても高価なものだと分かっているのだが、問答無用でかんざしせんたんし勢いよく切りく。ねこの命より大切なものはないのだ。

 猫をそっと抱え上げて膝の上に招く。いやがることもなくじっとしてくれている間に、手巾の切れはしで傷がかくれるように巻き、止血の意味合いも込めてきゅっと強めにしばった。

「さぁできたわ」

 大人しくされるがままの猫の背中を毛並みに沿って撫でる。明鈴が撫でるとほんの少しだが灰色と黒の斑模様がうすくなった。外を走り回っているから汚れもあるのだろう。竹林をけ回ったせいで落ちた竹の葉なども毛に引っ付いていたので、取り除きながら毛並みを味わう。耳の後ろやあごの下をやさしくいてやると、気持ちよさそうに『ぐるる』とのどを鳴らし始めた。

「はわわっ、かわゅ」

 明鈴の言語ちゆうすうが再び機能不全を起こす。可愛すぎて歯がうずうずしてきた。

「これは洗って思い切り吸うしかないわ。さぁ猫ちゃん、いつしよにおしきへ帰りましょうね」

 猫をむなもとかかえ、よっと立ち上がる。そのしゆんかんだった。あれだけ大人しかった猫が暴れ出したのだ。

「え、ちょっと、どうしたの?」

 落とすまいとふんとうするが、地味に痛い猫パンチまでり出されて思わず腕の力が緩む。そのすきのがさず猫はするりとけ出し、竹林の奥へとげ去ってしまったのだった。

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