父と猫が好きな娘

成美鮭渡

父と猫が好きな娘

 二週間前、仕事ばかりの自分に愛想を尽かし、妻のリカは家を出ていってしまった。

 娘のカナが眠った後、皿洗いをしていたリカが僕の方を振り向かないで「話があるからそこ座ってて」と言った。思えば、あの時の声は我慢が今にも爆発してしまいそうなぐらい震えていたような。

 でも僕は哀れにも深夜帯のバラエティ番組が待ち遠しくて、彼女の言葉を軽く捉えていた。

 そこからの展開は凄まじいもので、あれよあれよという間に離婚の話が進んでいった。状況の処理が追いつかなくて、足元で鳴いていた飼い猫のイナリに気づかなかった程だ。


「カナとイナリの面倒も見てよ」


 ありったけの罵声を僕に浴びせて落ち着きを取り戻した彼女は、カナの親権を押し付けて郊外の実家へと帰ってしまった。

 僕に残されたのは今年七歳になる娘のカナと、三毛猫のイナリ。そして三十年もローンが残った二階建てのマイホームだけだった。

 リカがいなくなった我が家で僕は洗濯、炊事、育児、掃除を拙い知識で必死にこなしていた。

 全てが終わる頃にはもう疲れが溜まりきっている。大好きだったバラエティ番組を見る気力も起きない。


「パパ、大丈夫?」

「ニャー」


 パジャマ姿で眠たそうな眼をこすりながらカナがリビングにやって来た。日に日に体が丸くなっているイナリも一緒だ。

 ほぼ毎日僕を労ってくれるカナとイナリは、家事終わりの僕を癒してくれる唯一の存在になった。


「うん大丈夫だけど、猫の手も借りたいかな」

「イナリの手?」

「ニャー?」


 互いに顔を見合わせて向き直ると、二人同時に首をかしげた。


「違う違う。猫の手も借りたいっていうのは、忙しすぎてどんな手伝いでも欲しいことだよ」


 僕の答えにカナはふーんと興味なさそうな返事をした。ことわざに関する知識がまだ少ないからだろう。

 時刻は十時過ぎ。僕は明日も仕事、カナは学校。明日の準備をしなければならない。

 カナに自室に戻って寝るよう言った。あくびをしながら眠たげに「はーい」と答える姿はとても愛らしい。

 カナを守るのが僕の役目だ。


※ ※ ※


 西日で空がオレンジ色に染まる。

 四、五人の中学生のグループが横を通りすぎていった。

 猫の鳴き声がやけにうるさい仕事終わりの帰り道だった。発情期で気が立っているのか。それにしては弱々しい。玄関先で談笑する奥様方も気になっている様子だ。

 カナは学校が終わって家に帰り着いてる頃だ。

 歩を早めつつ、今晩の夕食を考える。卵料理なんてどうだろう。今後のためにバリエーションを増やしておくのも悪くはない。

 愛娘と愛猫が待つ我が家に到着した。玄関を開ける。


「ただいま!」


 おかしい。返事がない。

 いつもならカナかイナリが必ず出迎えてくれるはず。

 寝ているのか。

 そう思って寝室兼作業部屋へ向かうと、扉の前に銀色の箱が置かれていた。お菓子を入れておくようなアルミ製の箱だ。

 その上に一枚の紙がある。カナの字でこう書かれていた。


 パパへ いつもありがとう 猫ちゃんの手借りたよ


 小学生とは思えないキレイな字だった。

 昨日の「猫の手も借りたい」という発言を聞いてのものだと思う。孫の手みたいな感じで、工作かなにかで猫の手でも作ったのだろう。

 箱を開けようとした時、嫌な感じがして手を止めた。

 猫の手も借りたい。弱々しい猫の鳴き声。出迎えてくれないイナリ。

 まさか。そんなはずない。

 恐る恐る箱を開けた。

 黒色、茶色、黄土色、白色、棒状の物がざっと十本。丁寧に揃えられているが、全て赤色の液体で汚れていた。

 指で摘まむと、ネチャっとした粘り気のある不快な感触がした。

 一本取り出してよく観察すると、先端部分にあったある物が眼に入った途端、僕は声を上げた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」


 特定の動物にしかない足裏の無毛の部分。

 猫の肉球だ。

 洗面所に駆け込んだ。激しく咳き込み、胃の内容物を吐き出す。

 なぜ猫の手が家の中に。それもあんなにたくさん。

 猫が好きなカナがあんなことするはずがない。

 箱の上に置かれていた手紙はカナが書いたのではない。

 あの箱はきっとサイコパスな不審者が家に侵入して置いていったのだ。

 カナとイナリは不審者に襲われている。

 僕は自分にそう言い聞かせて、カナとイナリを探そうと思った。

 呼吸を整えて、顔を上げた。


「パパー?」


 鏡にカナが映っていた。洗面所に入る手前のところで僕を不思議そうな目で見つめている。

 僕は振り返ることができなかった。

 なぜなら、カナの右手には僕が仕事で使っている切れ味抜群の大きなハサミ。左手にはピクリとも動かない三毛猫が垂れていた。引きずってきたのか、血の道が部屋の外まで続いている。


「パパおかえり! 私ね、パパが疲れてるから頑張ったの! 猫の手も借りたいって言うから、学校が終わったらイナリと一緒に外で猫ちゃん探したの! それでね………」

「やめろぉ! それ以上言うなぁぁぁぁぁ!」


 僕はカナに飛び掛かった。

 嬉々として話すカナの笑顔は、リカそっくりだった。


※ ※ ※


「次のニュースです。昨晩、円能古えんのこ市に住む半戸はんどカナさん六歳が死亡しているのが発見され、警察は父親の半戸タイキ容疑者を殺人の疑いで逮捕しました。取調べに対し半戸容疑者は『猫の手が、カナの手が』と意味不明な供述をしており、犯行の動機はわかっていません」

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父と猫が好きな娘 成美鮭渡 @naru3kei10

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